特別寄稿

5回連続講座

 

はじめに

 日本美術院の歴史について、これから5回にわけて述べていきます。明治31年(1897)の創立から今年で112年目を迎える、その長い歴史については『日本美術院百年史』全15巻に詳しく綴られています。院展の若い世代には是非とも目を通していただきたい基本文献です。部外者の私がこう言うのは誠に僭越ですが、これからの日本美術院を支えていく世代は、これまでの日本美術院について知っておくことも必要なことの一つではないでしょうか。また、院展を訪れる全国の鑑賞者の皆さんにとっても、日本美術院の歴史は、日本近代美術の歴史そのものというべき面白さがあることを知っていただきたいと思います。

 そうはいっても、『百年史』はあまりにも膨大な資料を網羅的に掲載しているために、研究者はともかく一般の人が日本美術院の歴史を要領よく理解するには骨が折れます。そこで、この場を借りて、私が特に若い世代に伝えたいトピックをいくつか選んで紹介を試みようと思います。

1.日本美術院歌の話

 第1回目としてとりあげるのは、「院歌」です。日本美術院は横山大観が書いた院歌を所蔵しています。まずはそれを見てみましょう。一行目。「谷中 初音之血に染む 花」とありますが、下絵となっている「紅梅に鶯」を文字絵として使った大観の洒落です。ですから「谷中うぐいす初音之血に染む紅梅花」となり、続けて「堂々男子は死んでもよい」「奇骨侠骨開落栄枯は何のその」「堂々男子は死んでもよい」とあります。

大観が最後に「録天心先生作日本美術院之歌」と記したとおり、この歌を作ったのは岡倉天心で、それはまさに、明治31年に日本美術院を創設する頃のこと。天心とその弟子たちは院の将来を語っては痛飲し、気炎をあげていました。そんな時に天心が酔余に作った歌をのちに大観が「院歌」としたのです。『岡倉天心全集』には諸本を編集して次のようにまとめています。

 谷中うぐいす初音の血に染む紅梅花 堂々男子は死んでもよい

 奇骨侠骨開落栄枯は何のその 堂々男子は死んでもよい

 錦小路ににしきはなひよ 錦の綴もきれきれに

 たとひきれても錦は錦 よられよられてあやそ織る

 初音とは院が最初に研究所を建設した谷中初音町と鶯の鳴声をかけたもの。血に染むは血に咲くと書かれることもあり、自分たちの決意のほどを示しています。堂々とした男気をもった俺たちは、世の浮き沈みなどものともしない。まさに死を覚悟しているのだ、と続きます。三句目の錦小路とは当時の東京美術学校の前の通りの名で、美校騒動で仲間がばらばらになってしまったことを嘆きますが、その錦もまたよられよられて綾を織るのだと院創設の意気込みを見せています。今日のように、徒党を組んで酒を飲んだりはせず、互いに干渉されることも好まない人間関係が当たり前の時代に、この歌の趣きはちょっと理解しがたいかもしれません。

 この時、天心は数え年37歳、大観は31歳でした。国という後ろ盾を失い、退路を断たれた彼らは突き進むしかなかったのです。創立時の規則にうたった日本美術院の活動目的は「本邦美術の特性に基き、其維持開発を図る」(第二条)ことでした。ここに院の歴史は始まったのです。

2. 研究機関としての日本美術院

前回は、「院歌」を紹介して日本美術院創立の意気込みを振り返りました。明治31年創設のいわゆる前期日本美術院は、絵画だけではなく彫刻、工芸、建築装飾なども含んでいて、事業としては研究、制作、展覧会の大きく3つにわかれていました。
ところで、なぜ日本美術「院」というのでしょうか。その理由は、岡倉天心が当初美術学校に対する大学院の役割を、この日本美術院に期待していたからです。研究部では研究生を募って正員が指導にあたる構想でした。しかし、実際には展覧会事業と制作に追われて、研究生を指導する教育機関とはなりませんでした。そのかわり若い正員たち(大観、春草、観山ら)が新しい描法への研究を熱心に続けたことはよく知られています。
前期日本美術院のもっとも重要な研究成果が「朦朧体」であったことは、皮肉にも院の経営を行き詰まらせ、事実上の活動停止にまで立ち至る事態となりました。線を用いず、色彩とグラデーションだけで表現する試みは、それまでの日本画支援者には受け入れられなかったからです。
あの大観、春草が日々の米や味噌にも事欠く困窮生活を強いられたのです。彼らがお互いに助け合いながら、やがて自ら朦朧体を脱していくことができたのは、日本美術院創立の趣旨が「研究」であることを強く自覚していたからに他なりません。その精神的な支えとなったのは岡倉天心の理想主義であったと思われます。もしも美術院が注文に応じた制作だけをおこない、売れるような絵だけを展覧会に出品していたならば、彼らの生活はもっと楽であったかもしれませんし、春草はもっと長命であったかもしれません。日本画の理想と可能性を追い求めた彼らのエネルギーは生活の安定にはつながりませんでしたが、春草の《落葉》《黒き猫》、大観の《流燈》などの作品に結実し、今日の日本美術院の基えをつくりあげたのです。
この、“日本美術院は研究機関である”という自覚は、大正3年(1914)に再興される時にも、はっきりと受け継がれました。天心の一周忌にあたる9月2日、大観、観山は一万円余の借金をして設立した谷中の研究所で開院式を行い、「日本美術院三則」を掲げました。

 

 一  日本美術院ハ新日本ノ芸術樹立ニ益スル所アランガ為ニ、再ビ其研    究所ヲ起ス
一  日本美術院ハ芸術ノ自由研究ヲ主トス、故ニ教師ナシ先輩アリ、教    習ナシ研究アリ
一  日本美術院ハ邦画ト洋画トヲ従来ノ区別ノ如ク分割セズ、日本彫刻    ト西洋塑像トモ亦然リ

 

 この高らかなる理念は、戦後つくられた「綱領」の中に受け継がれていますが、今日では同人諸氏にどのように受け容れられているのでしょうか。過日ご逝去された秋山光和先生が、院の折々の会でのスピーチで幾度となく強調されていた言葉が蘇ります。日本だけでなく世界に数ある美術団体のなかで「インスティチュート」と呼べるのはこの日本美術院だけなんですよ、と。

3. 洋画・彫刻部があった日本美術院


今日では、院展といえば日本画の団体展であることは説明するまでもないことのようですが、院展彫塑部が解散して現在のように日本画だけとなったのは、昭和36年(1961)ですから、さほど昔の話ではありません。
すでに述べたように、明治31年創設の頃には、彫刻、工芸、建築装飾なども含んでいて東京美術学校の大学院的存在を目指していました。創設者の岡倉天心は、すでに明治30年の段階で、国立の美術教育施設の拡充を構想し文部省に提出すべく意見書もまとめていました。その中に、全国のすべての美術学校の頂点にたつ組織として「美術院」が出てくるのですが、「全国の名工鉅匠ヨリ組織シ実技研究生トシテ之ニ年金ヲ交付シ帝室御用品其他精妙ナル製作ニ従事セシメ以テ本邦美術ノ最高程度ヲ保維スルヲ目的」(「美術教育施設ニ付意見」)とするとなっています。美術学校事件を契機に在野に日本美術院が創立されたことは、歴史の綾というべきで、本来はこの国立による美術院構想が前提となっていたのです。そうであるからこそ、天心は日本画だけでなく工芸や彫刻にも大きな関心と期待とを抱いていました。初期の日本美術院の活動としては、六角紫水、岡部覚弥、岡崎雪声ら工芸家たち、新海竹太郎、新納忠之助、図案の前田香雪など多彩な顔ぶれによって実技指導が行われていました。
天心は、明治39年(1906)に院を第一部と第二部とにわけることを決め、新納忠之助に命じて国宝彫刻修理を専門とする工房を奈良東大寺内に設置しました。当時は日本美術院第二部と称していたのですが、これが今日の財団法人「美術院」です。
天心没後、大正3年の再興時には、洋画部と彫刻部(のち彫塑部と改称)とがあり、「日本美術院ハ邦画ト洋画トヲ従来ノ区別ノ如ク分割セズ、日本彫刻ト西洋塑像トモ亦然リ」と三則にもうたわれていました。この時の理念は、教育機関のトップという初期院展の構想からは脱して、自由な研究を重視する研究発表機関として、絵画彫刻の両輪で日本の美術界を牽引しようというものでした。彫刻のリーダーとなったのは、当時42歳だった平櫛田中です。田中は谷中の研究所に彫刻アトリエを開設し、西洋風の彫塑と伝統的な日本木彫の両方を研究。田中を中心に、木彫では佐藤朝山、内藤伸、橋本平八、彫塑では中原悌二郎、保田龍門、戸張孤雁、藤井浩佑、喜多武四郎、石井鶴三、新海竹蔵ら錚々たるメンバーが在籍する日本美術院彫刻部は、近代日本彫刻の研究発表機関としてきわめて重要な役割を担いました。
一方の洋画部ですが、大観と意気投合した小杉未醒が中心となり、足立源一郎、山本鼎、倉田白羊らが同人として籍を置き、出品作家には、大正デカダンスを象徴する村山槐多、前衛絵画の先頭を走った萬鉄五郎らの名もありました。
洋画部はフランス現代美術展の開催をめぐって院内で意見が分かれたことが原因で大正9年(1920)に解散となりました。
このように、とくに大正時代には洋画、彫刻部が日本画と同様に美術界をリードするような活動をしていました。当時の日本画の若き同人たちの中でも、今村紫紅や速水御舟のように積極的に新しいものを吸収していく画家たちは、他分野からの刺激をうけつつ日本画の新しい可能性を追求していったのです。

4.世界の中の日本美術院

 

 今回は、日本美術院が創設以来、世界とどのような関りをもってきたのかを概観します。よく言われることですが、日本画は国内でのみ通用するジャンルで市場も国内に限られているのだと。したがって、日本画は世界の美術事情とは没交渉でよいのだという考えがある一方で、日本画は世界で認められなければならないという考えもあります。
日本美術院は、コスモポリタニストである岡倉天心の指導のもと、創設当初から世界に対してさまざまな関係をもってきました。たとえば、大観、春草のインドへの旅行、その後の荒井寛方のインドでの壁画模写。天心自身もインドとは深い関係があり、『東洋の理想』もインドの青年に向けて書かれたものです。
また、英語に堪能であった天心は、アメリカを中心に日本画、日本美術の素晴らしさをうったえ、展覧会も行いました。ちょうど、明治30年代、日本美術院の画風は「朦朧体」という非難をうけて窮地にたたされていた頃のこと。大観、春草、観山の作品をボストンやニューヨークで紹介すると、ほとんど完売するという大成功を収めました。
天心の没後、大正3年に再興された院は、いくつかの大きな海外展にかかわってきました。天心の遺志をつぐ横山大観は日本美術院を海外で紹介することになみなみならぬ意欲をもっていました。もっとも大規模なプロジェクトだったのは、昭和5年にローマで開催された日本美術展でした。大倉喜八郎の肝いりで実現となったこの展覧会では日本美術院だけでなく、当時の実力画家たちを糾合し日本画の存在をヨーロッパにアピールするものでした。日本から大工を連れて行き、会場に床の間までつくって掛け軸や屏風を展示したのですが、明治30年代のアメリカでの展覧会では西洋人に買ってもらえるよう額装にして画題もわかりやすいものにしたのに比べて、昭和初期には堂々と床の間芸術としての日本画を展示したのですから、わずか30年ほどの間に、日本と世界の関係が大きく変わっていったことが感じられます。翌昭和6年(1931)に行われたアメリカ巡回日本画展は、文部省の監修により院展、帝展から選りすぐりの画家が「現代日本画」を紹介する大規模な海外展でとなりました。院からは大観、青邨、武山、靫彦、御舟ら主だった同人たちが出品しています。
戦後、院展を、あるいは日本画を海外に紹介する機会は国や団体レベルではほとんどなくなりました。ごく最近、平成19年(2007)にパリ三越エトワールで、現役同人の作品を展示した「日本画『今』院展」を開催したのは記憶に新しいところです。ということは、海外への発信に関しては、もちろん個人レベルではさまざまな試みもあったとはいえ、長きにわたって世界に対して閉ざされた状態だったということになります。
ところで、平成10年(1998)、創立100周年を迎えた日本美術院は東京国立博物館で「近代美術の軌跡」展を開催しましたが、実は、その直後にこの100周年記念展をアメリカのフリーア美術館とフランスのギメ美術館で開催する企画がありました。戦前までの院展の名品を厳選し、紹介しようという大規模な計画でした。しかし、開催直前となってあの9・11のテロ事件が勃発し、安全上の問題から開催が延期となってしまいました。作品の選定、カタログの執筆まで進んでいましたので、たいへん残念に思っています。
グローバル化がますます進んで、世界が多様な価値観を共有していく時代になっていく中で、今後日本美術院が世界に何を発信していくのか注目していきたいと思います。

 この「外伝」も最終回を迎えました。
日本美術院の歴史をさまざまな角度から見直してみよう、そしてこれから日本美術院はどこに向かっていくべきなのか、その課題に対する考えのヒントを見出そうというのがこのコラムの狙いでもあります。創設者の岡倉天心は、歴史を学ぶということは未来を考えることである、という意味の言葉を残しています。創設から112年、再興から96年の伝統をもち今に行き続ける美術団体は、世界でも他に例がありません。それはもはや文化遺産というべき存在といえるのですが、それだけにその伝統を継承するだけでなく刻々と変化する時代と呼応しながら発展していくことは容易なことではありません。
戦後昭和33年、財団法人化を病床で果たして亡くなった横山大観の遺志を継いで、安田靫彦が初代理事長となり日本美術院は新たなスタートをきりました。その後、奥村土牛、小倉遊亀、平山郁夫といった錚々たる顔ぶれが理事長を歴任してきました。それぞれが画家としての秀でた創作活動にくわえて、理事長として日本美術院の経営に尽力されてきたからこそ、目まぐるしく価値観の変化する美術界にあって日本画の団体としてゆるぎない位置を堅持することができたともいえるでしょう。
安田靫彦が亡くなり奥村土牛に理事長が引き継がれたのは昭和53年です。つまり在任期間は20年の長きにわたっており、それは日本の高度成長期と重なっていました。この時期に、日本橋三越での春季展と東京都美術館での秋の本展が全国各地を巡回する、現在の院展の活動の流れが定着しました。と同時に、若い作家に大観賞や奨励賞を授与して次代を担う人材の育成にも力を注ぎました。
奥村土牛理事長時代には、毎年の院展でオールカラーの全作品集を刊行。まさにバブルへ向かっていく時代背景に、昭和63年には創立90周年を祝う記念展を開催、また100周年にむけて多額の資金をあてて百年史の編纂にも着手しました。
土牛没後、小倉遊亀は高齢にもかかわらず強い理念をもって日本美術院を支えました。はじめての女性同人となったころには話題ともなりましたが、女性理事長も当たり前の時代となっていました。そして遊亀から平山郁夫にバトンタッチされたのは平成8年でした。創立100周年にあたっては、さまざまな困難をのりこえ東京国立博物館での大規模な記念展や百年史の完結などさまざまな事業を推進し成就させました。バブル崩壊後、不況に向かう日本経済にあって、平山理事長は国際的な活動や強力な手腕によって日本美術院を経済的にも精神的にも支え続けましたが、その平山氏も昨年末にお亡くなりになりました。
つい数カ月前のことではありますが、平山氏のご逝去によってそれまでの日本美術院は歴史化されたということもできます。伝統とは、同じことを繰り返すことではありません。つねに新しい何かを生み出すことによってのみ、閉塞した状況を打開し継承発展できるのです。日本美術院の長い歴史を振り返ってみると、そのキーワードは伝統ではなく革新ではなかったのか、と思われてなりません。
節目節目に伝統をしっかりと思い起こすことは確かに重要なことですが、ひとりの作家の内面には伝統と革新が共存しています。何にもまして重要なことは、何かを失ったとしても新しい何かを生み出していこうとする革新への意欲なのではないでしょうか。