一 一切の藝術は無窮を
趁ふの姿に他ならず 殊
に絵画は感情を主とす
世界最高の情緒を顕現
するにあり

 

二 日本美術院は新日本
の藝術樹立に益する
所あらんが為其維持と
開発を期す

 

三  日本美術院は藝術
の自由研究を主とす 教
師なし先輩あり 教習
なし研究あり

 

日本美術院 

A 「日本画」という言葉は、明治以降ヨーロッパからもたらされた「西洋画」に対し、従来の技法・様式で描かれた絵画を指すために生まれました。つまりそれまで日本で絵と言えば、そのほとんどが「日本画」だったわけですから、わざわざこのような言葉を使う必要がなかったのです。現在では主に墨・岩絵具などの伝統的な絵具を用いて、和紙や絹などに描かれた絵画を総称して日本画と呼んでいます。

A 日本画に使用される絵具で代表的なものに「岩絵具」があります。文字通り天然の岩石を砕いて粉状にしたもので、藍銅鉱から作られた群青(青色)・孔雀石から作られた緑青(緑色)・硫化水銀が主成分の辰砂(赤色)などがあります。これらは粒子の粗いものは濃く鮮やか、細かいものはうすく淡いといった特徴があり、用途によって使い分けます。

また粉状のため、このまま塗るわけにもいきませんので、お湯に溶かした膠(にかわ)とまぜて使用します。塗ってからしばらくして水分が蒸発すると、残った膠が接着剤の役割を果たし、岩絵具はしっかりと画面に定着します。(膠は牛や鹿・うさぎなどの皮や骨から抽出した成分を固めたもので、精製するとゼラチンになります。)

尚、天然の岩絵具は色数も少なく値段も高価なため、現在では安価でさまざまな色が揃っている、人造の「新岩絵具」も多くの画家が使用しています。

このほかの絵具として、貝殻を砕いて作った白色絵具の「胡粉」や、金箔や金泥といった金属材料などさまざまな種類がありますが、その多くは岩絵具と同様に膠によって画面に定着させます。

A  もし将来画家になることを目指すのであれば、親戚や知り合いなど身近に日本画家の方がいらっしゃる場合、その先生のもとで勉強するという方法がありますし、そういった機会がない場合でも、美術大学の日本画科への進学という道があります。大学では日本画の勉強はもちろんのこと、他の分野の人たちとの交流によって見識が広がり、より有意義な時間を過ごすことができますが、受験に際しては事前に予備校などで基礎的な力をつけておかねばなりません。

また普段の生活の中でも、本格的な日本画を描いてみたいということで、カルチャーセンターに通われる方も多くいらっしゃいます。中には第一線で活躍中の画家が講師をされている教室もあり、生徒が院展に出品して入選するのも珍しいことではありません。

そのほか最近では社会人向けに日本画の通信教育を行っている美術大学もあり、さまざまな事情で通うことが出来ない方などには便利かと思われます。

尚、日本美術院では大学・カルチャーセンター・予備校・絵画教室などについてのお問い合わせ・ご質問には一切お答えできません。何卒ご了承ください。

A 日本は春夏秋冬とはっきりした四季に恵まれた国土です。従って日本人である私達は生れた時から自然の美しさや、季節による厳しさとともに生きています。その様な私達は自然の移り変わりにとても敏感で、自然に自分達の自然への愛情や感謝の気持を絵で表す様になりました。花や鳥だけを描く「花鳥画」は西洋には存在しない絵です。西欧の人達は花や鳥を描く場合、必ずそれらがどこにあるかという事を描き込みます。モネの睡蓮の絵やゴッホのアイリスの絵、ひまわりなど、その周辺の場所が絵の中に描きこまれます。日本画は真っ白な所に花一輪、鳥一羽描いてあっても見る人は不思議には感じません。それは現実を描いたものではなく、自然と向かい合う喜びの気持を絵にしたものと本能的に解るからです。日本人は本能としてその様な感覚を持っていると思います。広々とした風景や一つのものだけを描くという事も絵では何の不思議もなく実行出来ます。同じ大きさの画面に富士山を描くこと、または一つのリンゴだけを描くということ、描く者にとって、目の前にある紙は自由に小さくなったり大きくなったりする魔法の紙なのかもしれません。

A 昔、中国から渡って来た紙や、墨といった材料が日本ではより良いものへと伝わっています。日本人の生真面目な性格や完全主義によって、それらの材料をより良いものへと進化させて現在に至っています。ただし、墨だけは中国の古い墨に勝るものは造られていません。中国の十五世紀後半(万歴時代)頃から清時代の乾隆時代(十八世紀)に至る当時の皇帝のために作られた「御墨(ぎょぼく)」の幾つかが現在も残っていますが、これは今の日本の優れた技術でも造ることの出来ない素晴らしいものです。筆も日本人は中心にかたい毛その周囲を柔らかい毛で包むという工夫をして、柔らかい毛だけで造られている中国の筆とは違って、日本画の表現に良くあっているものを生み出しました。岩絵の具という天然の鉱石をくだいて青や緑や赤の色を作るものは日本にしかありません。その他自然の植物から藍や黄、茶緑といった色も作られています。また現代は化学の進歩のおかげで磁器(お皿とかお茶碗とか陶器の材質)に色々着色してそれをくだいて岩絵の具を作るという方法が出来て、今迄なかった様な中間色とか新しい色が出来る様になり大変便利になりました。河原の石や泥などからも灰色の絵の具(黒曜石)や黄土色などが出来ます。

A 大変むずかしい問題です。油絵は、昔、例えばルネッサンスの頃(十五~十六世紀頃)物や人をそこにいる様に描けることが主流でした。その様な画風は宗教的なテーマや物語(キリストの生涯など)を描くことで教会が一般の人達に信仰の道を教えることに大きな力を発揮しました。十八世紀~十九世紀頃、印象派の様に光や影で美しい画面を表わす作品が生まれ、絵で大事なのは物語よりむしろ、絵でなければ表現できない構成(組み合わせ)だという考えが生まれ、写真が発明されて、それまで絵が背負っていた事実を記録する役目が不要になると、「構成」や人々の心の深い所にある意識などを視覚化しようとする運動が始まります。ピカソやブラックなどの立体主義や、モンドリアンやミロやクレーといったアブストラクト(抽象主義)、ダリの様なシュールリアリズム(超現実主義)が主流となります。一方、日本画は初めの頃から写実よりもむしろ心の中の思いを視覚化しようと考えていました。奈良時代の仏画はキリスト教の絵と違って、あくまでも拝む為のもので物語とか、記録など全く考えていません。写実より、むしろ抽象的な感覚を自然に持っていました。例えば「源氏物語」の有名な絵などを見ても、壁などはあっても天井をとりはずした様に部屋の中の人物がそのまま見える様に描いています。絵巻物では物語が丁度紙芝居を見る楽しさの様に進行しています。日本人の感覚の中には、写実的なものよりむしろ抽象的な感覚が自然にそなわっているのではないかと思います。油絵の具は、立体感などを描くのに適した材料ですが日本画の岩絵の具は平らに塗って色の美しさを強調することにむいています。日本人は絵を写実的に描こうという気持があまりなかったのでその様な材料を少しも不便と思わず何百年の間、その様な方法を使っていたのです。明治時代に盛んに外国の絵やその絵の具などが我が国に紹介されると、その迫力や今迄日本画になかった表現方法が驚きをもって迎えられ,多くの人がその材料を使って絵を描く様になり、優れた画家が大勢生れて、今は日本美術の大きな支えになっています。明治時代の洋画技法の導入によって、現在の様に「洋画」「日本画」という呼び方が定着しました。

A 日本人は体格も西欧の人に比べると、やや小柄で食事などもどちらかと言えばあっさりしたものを好む傾向があります。西欧の人達が血のしたたる様なステーキが好きなのに比べて、日本人は勿論肉も好きですがそれが余り続くとお鮨を食べたいとか、あっさりした薄味の京都風な日本料理を食べたいと思います。それは日本人の永い風土の影響や歴史の中で作られて来たからです。俳句の様に十七文字で自然と自分のかかわりを象徴的な詩として歌うことも恐らく世界の他の国々にはない形式です。日本画もその様に日本人の身体の中を流れている「血」の求めによって作り上げられた絵画だと思います。コツと言えば日本人としての自然との結びつきを正しく見つめその心に従って筆を動かすことでしょう。

A 人によって違うと思いますが、今この答えを書いている私自身(松尾敏男)の場合をお話します。絵を描くことは小さいときから好きでしたし、その好きなことを毎日やっていたいと強く思う様になったのは十六才ぐらいの頃でした。たまたま本屋で見つけた「南画の描き方」という書物を手に入れて、本の中のお手本を見ながら墨絵を描いてみたら、今迄になく真剣になれました。その次に「日本画の描き方」という本を見つけてそれを買って来て家で真似をしたら益々一生懸命になりました。その時、絵を描いていれば自分は一生の間、一生懸命の人生が送れると思って、画家を志しました。

A これも私個人(松尾敏男)としての返事です。まだ絵を教えてくれる先生もいませんでしたが、家でいろいろ描いたものを知り合いに紹介してもらった町の無名の画家の人に見てもらいました。その人から「絵描きは死ぬ時は乞食の様に恵まれないまま死ぬ覚悟がいりますよ。」と言われ、その覚悟はありますと言いました。好きなことをして一生を過ごせるのだからお金とか社会的な高い地位の様なものはいらないと思っていました。幸い美術雑誌で見て好きだった作品を描いた先生の弟子にして頂くことが出来ました。十七才のときです。そして、その先生に描いた絵を持って行っては教えて頂き、弟子になって七年目、昭和二十四年(1949年)の院展に初入選することが出来ました。

A 弟子になった最初の頃は、花や鳥を写生して絵にしました。写生は絵の基本なのでそれは一生続きます。三十才の頃、日本画に西欧の絵の様な近代性を取り入れたいという気持になって、盛んに、油絵の様な感じの絵を日本画の絵の具を使って描きました。ピカソの様な抽象画にもあこがれ、そういう考えを日本画の中に取り入れたいと考えたりしました。その次、四十才前後は自分の人生に対する考え方を絵にしたいと思いました。その頃家庭もあり、一応生活も出来る様になっていましたが、それだけにそんな平和の後にある「死」への不安を絵で表したいと思い、死んだ魚や動物の骨や、ミイラなどをテーマに描いていました。四十才の半ば頃、宗達という江戸時代初期の画家の絵を博物館で見てびっくりしました。日本画はこんなに素晴らしいものだったと感動しました。そして、自分の考え方を絵で訴えるということではなく、自然の中にある自分を自然体で表わすことが日本画だと思う様になり、それ以来、素直な絵を描こうとしています。私はアメリカとの戦争の時、丁度十九才でしたから当然兵隊として戦場に行って、あと1~2年後には戦死してこの世の中にいなくなってしまうと決心していました。それだけに残されたあと1~2年の間は一生懸命絵を描こうと考えていました。ところが兵隊に行く直前、戦争に負けて終わってしまいました。死ぬことを覚悟していた時の思いがその後、死んだ動物やミイラや黒い太陽を描いたりした時代につながっていると思い、そういう時代にめぐり会ったことは画家としては意義のあったことと思っています。

A 私(松尾敏男)は自分で写生したものしか絵にしません。写生は絵の基本で、ただ物の形を写し取るのが写生ではなく画家は写生を通してその相手と耳には聞こえませんが会話をしているのです。その会話の中で相手の本質が分かって来たり、相手の長所や短所に気がついたりしてその理解があって絵が出来上がります。残念ながら最近は写真から絵を描く人もいるようですが、レンズが見たものは自分の会話がありませんから相手の形だけを描いて空虚な絵になってしまいます。本当なら写真から絵を描くということは画家としては恥ずかしいことです。簡単で楽な近い道を選んではいけません。初めて行く道を手さぐりで歩くことを心がけましょう。

A 人によって違うので一律に言うことは出来ません。筆の早い人、おそい人、
考えが早く決まる人、ゆっくりと時間をかけて考えをねる人、それぞれ自分の性格から出てくるので何とも言えません。言えることは、早くてもおそくても、作家のせい一杯の努力の結果でありその二つの道に差はないということです。

A 充分な写生を重ねて充分な準備をすること。今日の自分は昨日の自分と同じではなく、明日の自分は今日の自分より一歩前進していることを心がける様にと思っています。画家は終わりのない道を歩き続ける旅人です。終着駅にたどり着いた画家はまだ一人もいません。

A 私(松尾敏男)の場合は、対象となる風景とか花や鳥とか人物など、何でも題材に選びますが、その為にはその対象となるものに会った時、自分の心に感動が湧いてくることが必要です。感動すると絵は自然に生れて来ます。

A これも人によって違います。私(松尾敏男)の場合は描いている時間は十五~十六時間。よく疲れませんかと聞かれますが、絵を描いている時自分にとって一番正しいことをしているという安心感があるので、身体は疲れるかもしれませんが気持はいつも安心で疲れを感じません。

A 人によって随分違って差があると思います。

A 絵で一番大事なことは心ですから、良い心を持つよう努力することが大事ですがその他に絵は技術も大事なので、たくさん絵を描いて技術をしっかり身につける事も大事です。

A 自分以外の全てのもの・・・社会、人、自然、花や動物や鳥・・・に対するやさしい思いやりの気持。それと自分に対する厳しさ。

A 私(松尾敏男)は、よく動物や花を描きますがそれ等を描きながら表わしたい気持は「生きていることの素晴らしさ・・・命の美しさ」です。桜の花の小さい一片ですらどんな化学でも作り出すことは出来ないのに、自然は小さな種一粒でこともなげにその素晴らしい作業を成しとげることは神秘的で、そういう感動を描きたいのです。