安田先生写真マークにお目にかかれるという幸運に恵まれたのは戦後間もない昭和21年の秋でした。当時、中学生であった私がどうして山の頂のような立派な先生にお目にかかれることが出来たのか、その経緯を少し述べさせて頂きますと、私の父が美校の東洋美術史を専攻する教師をしていたことからその方面の方がよく我が家に見えられました。その中に古美術を愛好する方が居られ、安田先生と親しいお付き合いということから「知合いの息子に絵ばかりの者がいるのですが、一度絵を見てやっていただけませんか。」と座談の折お願いしたということが始まりでした。私は子供の頃から絵を描くことにしか興味を示さない性分でしたが、小学六年の頃からますます絵に熱中するようになりました。当時はまさに戦時色。展覧会には戦争関係の作品が増え洋画の藤田嗣治、宮本三郎、中村研一の作品の前で大いに感激したものです。最初は油絵でそのような作品をまねて描いていましたが、油絵具の感覚がどうも馴染めず日本画の絵具を使うようになりました。そして安田、前田両先生、松岡映丘先生の作品を知り武者絵に熱中していきました。そのような私を父の友人がよく観察していて、安田先生に「更に具体的に絵を見てやって頂けませんか。」とお願いしたということでした。先生は「私も年ですから、とても責任が持てません。」と最初は断られたそうですが、間に入った方の熱意についに「それでは作品をみましょう。」ということになりました。かなりの数の作品を持って伺いましたが、先生はその幼稚な中学生の絵を一枚一枚実に丁寧にご覧になり「このあたりから色がよくなりましたね。」とか御批評下さいました。先生の絵を丁寧にご覧下さるお姿、きびしい眼力に中学生の私は今迄経験したことのない戦慄のようなものを覚えました。やがて感激に震えながら絵をしまう私に「来週の日曜日に又いらっしゃい。」とこの時は優しい温顔でおっしゃって下さいましたが、これが、安田先生の門下になった私の記念すべき時でした。焦土と化した東京ではとても見られない琳派風のお庭に咲いていた寒椿の美しい赤い色は、今もはっきりと覚えています。この時先生は六十二歳、私は十七歳になったばかりの時でした。
安田先生写真マークに御指導頂けるようになったその年の暮、先生から「私のところで若い人を中心に一土会という研究会を催していますが、君も出席しては。」というお勧めがありました。若いお弟子さんも居られるのかと翌年楽しみに出席しましたが、出席者は立派な大人の方ばかり、私一人が子供でした。研究会には進駐軍の兵士を描いたものなどを持って行きましたが、子供の絵の延長ですからその批評にはさぞ、お困りになったことと思います。しかし、私にとってその合評会は凡てが新鮮で栄養がぐんぐん吸収される思いでした。そのうち院展の下図研究会写真マークがあり私の心はますます燃えさかりました。何故燃えてきたかという一因としてこの年の春、美校を受験しましたが、学科の点が足りず失敗してしまったということがあったからです。そして安田先生から高度な美の御指導を頂いているので中学の勉強が実にむなしくなり、先生にそのことを伺ってみましたところ即座に「一人で勉強してみては。美校に行かなくてもいいでしょう。」というお返事を頂き、思い切りよく美校進学を断念、中学も退学してしまいました。しかし退学し美校に行かないとなると何のレッテルもない人間、これからどうやってという不安感にさいなまれました。時はまさに院展制作期、よしここで美校のことや退学のことを忘れ気持ちを一新しようと更に燃え上がってきたということなのです。そしてその気持ちのまま、やや大きめの絵を始めました。八月半ば先生に見て頂けることになりましたが、パネルに貼った作品を見られる先生は何時もと違う厳しいお顔、やがて「君の止むに止まれぬ気持ちはよくわかりますが、今からこのような大きな無謀な絵を描いてはいけません。若さというものには限りがあります。若さというものは不思議な魅力を発揮しますが、ある年代を過ぎるとその魅力も狐がおちたようになりなんの感動も無いものになってしまします。私の友人にもそのような方がたくさん居ましたから君も今からこんな大きな絵は描かずに小品に花一本からやって下さい。小さな画面を会得すれば大きな絵はなんでもありませんから。」と小下図の作り方とその重要さを教えて下さいました。そして「感覚を真っ赤に錆びつかせてはいけませんよ。」更にとどめは「そのうち君も性に悩むことになるでしょうがそれまでにしっかりとしたものを掴むようにして下さい。」と懇々と一時間以上絵の道の厳しさをお話下さいました。燃えさかっていた私の気持はすっかり萎え全身汗びっしょりとなっていました。まだ性のことなど表立って言えない時代に性の悩み云々のことには青くなったり赤くなったりでした。そしてこの年の院展に先生は、戦後の混迷から日本画滅亡論などと姦しかった美術界に自信と光明を与えた名作「王昭君」を発表されました。

 安田先生から御指導頂けるようになって間もなくの頃、私は先生から絵を描くことの厳しさ難しさ、そして画家としての生活のことを懇々とお話頂きました。少年ではありましたが先生の噛んで含めるようなお話からその意味はよく理解出来ました。しかし花一本から小品の画面を研究するようにという問題は実に難しく一体どこから取り組むべきかと大いに迷いました。或る日父と日本橋の美術店、壺中居に出掛けた時に、戦後間もない、まだ仮店舗の床の間に杉山寧先生の明代の鉢の作品がかけてありました。それは赤絵の鉢、一盌のみ、しかし側によってみると陶器の肌、模様など実に精緻に描きこまれていて見た瞬間“これだ”というある直感がありました。早々に我が家に帰り、たいしたものではありませんでしたが我が家にある鉢一盌を一生懸命描き出しました。しかしいざ取り組んでみると単純な鉢の形のデッサン、輪郭線の入れ方、陶器の肌、模様の描き方、バックの余白をどうするべきか等々やればやるほど難しくなりました。膠の入れ方も多過ぎて失敗したりで情けない鉢の絵になってしまいましたが、下手ながらも一応まとめ、次に染付けの皿に茄子をのせた静物などを夏から秋にかけ制作していきました。毎度かなり手こずりましたが次第に硬さのようなものが薄れ、苦しみながらも光明のようなものを感じだしました。このような勉強を三年ほど続けたころでしょうか。研究会が終わってから先生が「鎌倉君ちょっと」と小さな声でおっしゃいました。何事かと側に寄り伺いますと「君も来年の春から展覧会に出品してみては」とこの時も小さな声でおっしゃいます。私はこのお言葉を聞いた時、まさに今の若者が言う「ヤッタアー」という天にも昇るような気持となりました。しかし十代の頃、調子にのって先生にこってりと意見された経験がありますので、嬉しさを噛み殺しながら「もう少し小品を研究した方がいいのでは」と申し上げますと、先生は「いや物事には時期ということがあります。君もこれからは絵で生活していかなければいけませんからもうその方向で進んでいきなさい。」と院展に出品のお許しが出、新たな勉強となっていきました。そしてさて何を描くべきかといろいろと考えた末、モチーフは小品で二、三度描いたことのある我が家の黒い犬に決め、制作の準備にかかりました。何故黒い犬にこだわったかといいますと、それは安田先生御所蔵の宗達作の水墨画の子犬からなのです。この作品は宗達の中でも一、二を争う名画と思いますが、十代の頃先生の床の間に無造作にかかっていたのを拝見した時、よろよろと歩く子犬の姿のとらえ方のうまさにすっかり魅了させられていました。そして小林古径先生も犬がお好きでしたが、当時先生がお飼いになっていたアオメという牝犬が、子犬をたくさん産んだからと古径先生の隣家の私の知人がボストンバッグに入れて持ってきてくれました。バッグから出てきたその子犬は黒い毛並み、大きな顔をふらつかせながらよちよち歩く姿は、まさに水墨画の宗達の子犬そっくりで、あらためて宗達の写実のすごさに驚き感心させられました。そのようなことから春秋の院展には黒い犬を描き出品しました。私は当時直接小林先生にお目にかかったことはなかったのですが、これは余談として小林先生のお弟子さんに当たる小谷津任牛先生が「君の黒い犬が審査に出てきた時、古径先生、にっこりして見て居られたよ」と入選が決まってから教えて下さいました。
そして秋の院展も初入選となり母と大磯までお礼の御挨拶に伺いましたが、奥様が「よかったですね、お父様もさぞお喜びでしょう。」とお祝いして下さり、続けて先生は「美術学校に行かなくても早く入選出来ましたね。」とおっしゃいましたが、そのお言葉に私は万感胸にせまる思いとなりました。