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1 六角堂の被災
 茨城大学は、大津波で流された六角堂を、被災後1年を経てなんとか再建することができました。文部科学省からの震災復旧予算に加えて、日本美術院を始め、個人・団体の方々からの458件(7月30日現在)をこえる寄付金のおかげです。この場を借りて皆様に御礼申し上げます。 再建にあたる中で六角堂によせる人々の思い、そして天心の意図を改めて確認することができました。 この連載では、震災後に見直したそれらのことをご報告いたします。
2011年3月11日は、まるで遠い昔の様に感じられます。当日、私は避難中の大学中庭で六角堂流失の知らせを受けましたが、「信じられない」という思いしかわきませんでした。頻発する大きな余震の中、同僚の先生が付けたカーラジオから流れる情報でも、何が起っているのかよく分かりませんでした。天心邸の床下までに達した津波は10.7m、六角堂では7.8mだったとのこと。天心邸は壁に大きな亀裂が走り、六角堂は土台を残すのみの姿になっていました。
 六角堂の流失の衝撃は大きく、池田学長も茨城大学の「宝」として積極的に再建に乗り出してくれることになりました。まず海底捜索を行いましたが、木材部分はすでに流され、発見できたのは瓦類のみでした。それも大部分は、昭和38年に大改修を行ったときに葺き替えたもの。最上部に鎮座していた宝珠は破片で見つかりました。これは創建当初からのものですが、戦後に一度台風で落下したと伝えられており、漆喰と接着材で修繕した痕跡が認められました。近くの海底には高さ3.6cm、幅2cmの水晶があり、底部のわずかな付着物が漆喰と分析され、宝珠に納められていたと思われました。この他にも六角堂を再建する中で、さまざま事が明らかになりました。それらについてご報告する前に、まず六角堂とは何だったのかについて確認しておきます。
 愛知県立芸術大学の熊田由美子教授によって、六角堂は次の三つの意味を重ねたハイブリットな建築だと解明されました。1.杜甫の草堂にならった亭子建築、2.京都頂法寺にならった六角の仏堂、3.床の間と炉を備えた茶室。それまでの「法隆寺夢殿模倣説」を打ち破った画期的な論考でした。天心は、自らの深い思想を、形にして示すために六角堂を建設したのです。六角堂は 『茶の本』などと同様に天心の作品だったのです。
 さらに近年地質学者から、六角堂前の岩礁が、特殊なものであるという知見がもたらされました。数億年前に五浦の海岸は深海にあって、メタンガスが噴出し、その熱を求めてたくさんの生物が密集していたといいます。生物の呼吸による大量の二酸化炭素が海中のカルシュームと反応して、炭酸塩コンクリーションという堅い岩となりました。それが隆起して海上に露出し、岩の中にたくさんの貝の化石を含み複雑な形になったのです。茨城大学の安藤寿男教授によれば、このような地形を海岸で直接観察できる場所は、日本ではこの五浦だけだそうです。この事実を知ったとき、私は天心が五浦を選んだ理由がはっきりと分かった気がしました。
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2 五浦の発見
  明治36(1903)年の5月ごろ、天心は、茨城出身の日本画家飛田周山の案内でこの地を訪れました。眼前の光景を眺めながら、「ホー、こりゃ大したものだ」という感嘆の言葉を連発していたと伝えられています。私にはその意味が長く理解できませんでした。海と断崖のせめぎ合う雄大な光景ならば、日本の至るところにあったはずで、文化財調査で全国を歩いた天心が、五浦の何に心を動かされたのかが分からなかったのです。
 その答えは、五浦の海中にそびえる岩だったのだと今は納得しています。炭酸塩コンクリーションという特殊な成り立ちの岩は、中国文人の庭園に必須とされる太湖石(たいこせき)にそっくりだったのです。地質学の先生によれば、この岩を日本で確認できるのは3ヶ所に過ぎず、しかも海岸にあるのは五浦だけだということです。天心は、ここに東屋を建てさえすれば、理想の文人庭園がおのずとでき上がることに興奮したに違いないのです。 8月に土地が自分の名義になると、そこにあった鮑料理の元料亭「観浦楼」を住まいとし、すぐに二人の米国人女性や、六角紫水などの関係者を招待します。とにかく自慢の光景を見せたかったのだろうと思います。
 その翌年の2月に、天心は、大観、春草、紫水を引き連れてボストンへと旅立ちます。ボストン美術館と五浦を往復する天心の最後の十年の生活が始まったのです。ほぼ一年後の明治38年3月に帰国し、3ヶ月後の6月には六角堂の上棟を終えています。天心邸と長屋門も建設しました。天心は、ボストン美術館勤務の傍ら、六角堂を含んだ五浦整備の構想を練っていただろうと思われます。妻の基子がダイナマイトの音を恐がって避難したというほどの大工事でした。 このとき岩盤に穿たれたドリルの跡は、現在も天心邸の裏の岩盤に数ヶ所に残っています。 おそらくボストン美術館の給料がその工事資金の裏付けになっただろうと思われます。 そして明治39年には、日本美術院の五浦移転が決行されるのです。
 そもそも天心は、なぜ東京での生活を捨てようとしたのでしょうか。日本美術院の五浦移転は、大観の証言などから、五浦とバルビゾンを重ねたのだといわれたりしますが、私には、天心がフランスの芸術家村を目標とすることなど想像できません。 五浦の六角堂は、前回述べたように、仏堂、亭子、茶室のハイブリッド建築でした。それはそのまま、インド、中国、日本を象徴しているのです。 五浦に土地を求める前年、天心はインドで『東洋の理想( The Ideals of the East)』を脱稿しています。 天心は、情熱を傾けて、五浦に「アジア」を実現しようとしていたと思われます。その冒頭の「Asia is one.」という言葉を、天心は実体として示そうとしたのではないでしょうか。天心は、大きな人生の転換点に際し、生活の拠点そのものから変えようとしていたのです。
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    岩の間から眺めた六角堂(流出前)
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    太湖石を描いた文人画(奥原晴湖作)
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    明治時代の五浦絵葉書
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    海から望む六角堂と石灯籠(明治38年頃)
3 日本美術院の五浦移転
 大観、春草、観山、武山の4人が家族ともども五浦に移ってきたのは、明治39年の11月末。冷たい雨が降っていたと伝えられています。五浦移転を「都落ち」と揶揄する新聞や、大観の「生活は乞食にも近かった」という回想などから、何かうらぶれたイメージを抱いてしまいます。しかし、実際はどうだったのでしょう。天心は、4人の画家に住む場所を自分で選ばせ、そこに合わせて居宅を自分のイメージで設計させています。残された図面を見ると、それぞれの画家が個性を発揮したプランを思い描いています。中二階を設け、踏み石のアプローチを 深く母屋の置くまで取り込んだ大観の大胆な空間感覚。 健康のためか、「正辰巳(東南)向」と指示した春草の繊細な配慮。紙のサイズを一杯に使う観山の律義さ。井戸と台所の距離を指定する武山の家族愛。五浦美術院研究所は、安田靫彦が「禅堂」と回想したような厳しさに満ちています。4人の画家はそれぞれ、新築の家から崖際の真新しい研究所へ通い制作していました。五浦の生活には、晴れがましさと清潔さを感じるべきなのではないでしょうか。
天心は地元の有力者への配慮も怠りなく、画家たちにも各方面からのバックアップがありました。大観と春草は、移転前に1年にわたる欧米での展覧会ツアーで好評を得ており、その収益の一部1000円を窮地の日本美術院に仕送りし、外国の画廊との契約も継続。そして帰国後二人は、東京に家を新築します。大観は、外国での金は東京での新居に使ってしまって、五浦への移転費にも事欠いたと回想していますが、実際には二人の家は1400円で売れています。天心邸の建設費は800円、米1俵が4〜5円という時代です。
そして、移転から10ヶ月後、五浦で「仲秋観月会」が地元はもとより、東京から多数の客を招いて、総勢百数十名の規模で開催されます。私は、これを翌月に開催される文部省美術展へ向けたお披露目だったと考えています。日本美術院の五浦移転そのものが、天心の周到な戦略だった可能性もあります。 天心が、明治38年にボストンのガードナー夫人に宛てた書簡をご覧下さい。「私は老若の私の同志たちのため、少なくとも向う二年間暮らしていけるだけの仕事と生計のめどを確保いたしました。一週間前にこの件はすべてけりがつき、今私はここ五浦で一休みしています―以前お話した田舎の農家です―美術院の事務所と宿舎はありますが、私の東京の家はもうありません」。
国設の美術展覧会は美術界の積年の悲願で、天心は東大の後輩だった牧野伸顕と以前から意見交換をしていたと思われます。二人には、シャーロック・ホームズ愛好家の草分けという共通点もあります。その牧野が明治39年3月に文部大臣となり、11月の日本美術院の五浦移転です。まるでシュートの直前にデフェンダーの視界から消えるストライカーのイメージです。五浦の4人は、明治40年10月第1回文部省美術展覧会で華々しく復活します。天心には緻密な戦略家の側面と遠大なロマンチストの側面が同居しています。前半生で美術官僚として栄華を極め、後半生で世界に打って出られたのもその両輪をそなえていたからでしょう。
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4 五浦という拠点の意味
 五浦の土地が天心の名義になったのは、明治36(1903)年8月1日。それから大正2(1913)年9月2日に没するまでの10年間、五浦は日本における天心の拠点となります。手紙には「常陸国大津五浦」「常陸多賀郡五浦」と住所が記され、「魚龍庵主」「五浦漁夫」「五浦釣徒」「五浦釣翁」という雅号が見られるようになります。その名の通り、天心は釣りを好んだようです。鱸などの大物を釣り上げるために釣具を工夫し、天気が良ければ釣りに出かけたといいます。いつも海上にいるのを心配した妻の基子の不安をはらすため、愛用の釣り船は遠方からでも目立つよう、観山が船首にカモメの絵を描き「かもめ丸」と呼ばれていました。没する二月前には、ヨットの原理を採り入れて自ら設計した「龍王丸」を完成させています。平潟の漁師に頼んで海釣りの手ほどきも受けたようです。現在所在は不明ですが『釣日誌』もあったといわれています。平櫛田中による《五浦釣人》のモデルになった有名な写真も残されていて、五浦の天心は釣三昧のようにイメージされています。
土地を購入してすぐ、8月6日には、19歳の愛娘高麗子に、自分は海水に身をひたし「海法師」のようになっているから「早く早く」五浦に来るようにと、愛情あふれる手紙を出しています。その10日後には、歌手のサースビー姉妹、サラ・ブルなどを五浦に招待しています。その頃はまだ、観浦楼と呼ばれた古い料亭に住んでいましたが、天心は、「アメリカ」の友人たちに五浦を早く披露したくてたまらなかったのでしょう。 もう一つの拠点であるボストン美術館で、パーティーの際に撮られた写真も平櫛田中の《鶴氅(かくしょう)》のモデルとなりましたが、ここでは中国の道服に身を包み、文人の陶淵明に扮しています。実は、《五浦釣人》にもモデルがあって、天心は古い本に描かれた厳子陵の姿を模していたのです。子陵は後漢の光武帝から官職登用の誘いを受けても固辞し、隠棲して釣と農耕に生きた文人です。
五浦でもボストンでも、中国文人の姿で記念写真に納まる天心。ここには、彼一流の戦略があったと考えるべきです。清水恵美子氏の研究によれば、当時ボストン美術館が用意していた日本の茶室を移転・建設する予算を、天心が中国美術の収集に振り替えたのです。それをきっかけに、ボストン美術館の日本美術部門は、中国美術の収集を充実させ世界有数のアジア部門と成長していくのです。天心は、道服でパーティーに出席することで、日本文化の基層に中国文化があること(漢字はその象徴です)をビジュアルに証明しようとしたのではないでしょうか。中国美術の収集が、膨大な日本美術コレクションを支えるのだというデモンストレーションです。そして、天心が六角堂を建設し、眼前の岩と併せることで、五浦に理想の中国文人庭園を作り上げたことは、この連載で申し上げた通りです。日本、中国そしてインド的に実際に生活して見せることで、天心は「アジアは一つ」という言葉を裏付けして見せたのだと思います。おそらくは六角堂でもその構想を練った『茶の本』は、中国で生まれた茶が、インドで紅茶になり、日本で茶の湯というユニークな文化を生んだことを詩的に表明したものでした。
厳子陵
厳子陵
 
5 六角堂=『茶の本』説
 今年は天心生誕150年、没後100年という節目の年にあたり、映画『天心』が企画され、昨年末には無事クランクアップしました。松村克弥監督、天心に竹中直人、大観に中村獅童、九鬼隆一に渡辺裕之というキャストで、命日の9月2日に東京藝術大学での試写会を目指し、現在は編集作業の真っ最中です。
 その撮影で、六角堂で天心が茶を立てるというシーンがあり、監督らと頭を悩ませた末に、裏千家の千玄室大宗匠にご協力を仰ぎました。そう考えた直接の契機は、六角堂の被災でした。東日本大震災の一月前の東京美術倶楽部・東京美術商協同組合発行の『Töbi』5号は、「岡倉天心の眼」という特集でした。社長の浅木正勝氏は大宗匠との企画対談で深い感銘を受けていたやさき、六角堂が津波で流されてショックを受けられ、いち早く再建のための寄付を申し出て下さったのです。それが六角堂復興基金を設立のきっかけとなり、おかげで一年後の再建につながったのです。
 その対談で大宗匠は、かつて『THE BOOK OF TEA』を辞書を引きつつ読み、これはただの精神論ではないと分かったこと、1951年にボストン美術館を訪れ天心が集めた日本と中国の美術品に『茶の本』成立の動機が感じられたことを語っています。お茶と天心の双方にこれだけ深い理解がある方は他にないと考え、無理を承知でお願いしたところ、「万事承知」ということで、アドヴァイザーに倉斗宗博先生を派遣して下さいました。お道具類から、炭を入れる炉の工夫まで一切合切のお手配をいただき、感謝に堪えません。
 倉斗先生を六角堂にご案内したとき、通路の飛び石を歩きながら、「これは二歩一歩ですね」と言われたのに驚きました。この通路が茶室の露地の型を守っているとは想像できなかったのです。再建なった六角堂が、茶室としての姿をはっきりと示していることと併せると、天心の意図が一層明確に思えてきました。
あらためて『茶の本』で露地について確認してみると、次のように表現しています。
Again the roji, the garden path which leads from the machiai to tea-room, signified the first stage of meditation----the passage into self-illumination.
 あえて翻訳を避けますが、 self-illumination =自己が光り輝く環境を作り上げることに天心の意図があったでしょう。茶の本では、茶が、中国に始まり日本(茶道)、インド(紅茶)を繋いでいること、仏教もまたそうであることを主張していました。六角堂もまた同じことを主張しているのではないでしょうか。 茶の本では宗教と文化で、ボストン美術館では作品で、五浦では生活そのものによってアジアの共通性を示そうとしたのです。これまで中国の文人庭園、日本の茶室は五浦に確認できましたが、足りなかったのがインドとの関連です。
 明治40年頃の写真にある石垣を、清水恵美子さんはインドの沐浴場を作ったのではないかと推理しています。天心が親交したヴィヴェカーナンダも、タゴールも自宅に沐浴上を備えていました。天心もそれに習ったのではないか。そう考えると、非常にバランスの取れた世界が五浦に出現します。天心は五浦で、日常をそれこそ茶飯事のように作りげようとしていたのだと思われます。
六角堂と石垣
六角堂と石垣