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はじめに

 日本美術院というとまず思い出すのが岡倉天心です。彼の指導のもと横山大観、下村観山、菱田春草たちが涙ぐましい努力と、目覚ましい活躍によって、近代日本画を確固たるものにしたとは誰もが認めるところでしょう。
でもその次の時代を担った作家たちに思いをはせるのも、日本美術院を理解するのには重要なことです。
そこで大正3年に始まる再興院展の作家たちについてお話したいと思います。

Ⅰ 日本美術院再興前夜

 大観、観山、春草の基本には狩野派がありました。観山は東京美術学校に入る以前から狩野芳崖など狩野派の画家に学びましたし、大観、春草も短時日ですが、美校入学のため、結城正明という狩野派の画家に学んでいます。そして美校に入ると橋本雅邦という木挽町狩野家で学んだ狩野派の権化のような師に学ぶことになりました。
それに引き換え、これからお話ししようとする今村紫紅、安田靫彦、小林古径、前田青邨、そして速水御舟らは東京美術学校の出身ではありません。市中の画塾に学んだ作家たちです。紫紅と御舟は松本楓湖、靫彦は小堀鞆音、そして古径、青邨は梶田半古というように。それぞれの師に多少のニュアンスの差はありますが、いずれも漢画系ではなく、むしろ大和絵系と言っていいと思います。


 大和絵は朝廷を中心に隆盛をみただけに、優しく優雅な趣を呈していました。それに作家の出自を見ると、靫彦は人形町に三代続く料亭の生まれ。紫紅は新興都市・横浜の外国人相手の提灯屋の息子。古径こそ高田藩士の家系ですが、早くに両親兄を亡くし、孤独のうちに東京に出てきました。そして青邨は岐阜県中津川の乾物屋の息子です。武家出身の狩野派とは距離を置く立場にいました。
それに時代も考えてみてください。大正というのは、明治時代のように国民が一丸となって富国強兵に向かった時代とは違います。人々が明治時代の矛盾に気づき、もっと人間性に目を向けようとした時代でした。しかも海外の美術事情もそれなりに分かるようになってきました。明治43年に『白樺』が創刊され、フランスの絵画や彫刻が次々と紹介されるようになったのです。それより以前、明治29年には東京美術学校でも西洋画科が誕生し、巷では黒田清輝を中心とする白馬会も誕生しています。
そういう時代風潮の中で、まず活動を始めたのが安田靫彦でした。明治31年、小堀鞆音門に入門した靫彦が、同門で紫紅会という研究会をつくったのです。そして33年、偶然、紫紅会という看板を見た今村紫紅が「馬鹿にするな、おれの名前と同じとは」とばかりに闖入してきたのです。ところが、互いの作品をすでに知っていた靫彦・紫紅の2人はすっかり意気投合してしまいました。この時から紫紅、靫彦を中心に活動が活発となり、明治35年からは展覧会を開催するに至ります。この展覧会開催にあたり会名を紅児会に改めたということのようです。
この会に参加してきたのが、速水御舟、前田青邨、小林古径たちでした。今思うとずいぶん豪華メンバーです。彼らが切磋琢磨して紅児会風という画風を生みだしていったのも肯けます。

Ⅱ 紅児会作家の傾向

 紅児会の作家は大和絵系と言いましたが、これはあくまでも漢画系に対してであって、大和絵オンリーではありませんでした。
彼らの師は新しい時代にあって、それなりの先見性を持っていました。安田靫彦の師・小堀鞆音も大和絵系の歴史画家とは言っても、明治29年には天心らの東京美術学校に奉職しており、天心が東京美術学校を追われると共に職を辞したのでした。そして日本美術院創立時には正員として参加しています。要するに当時としては新派に属する作家でした。
鞆音は明治35年に「歴史風俗画会」という研究会を興し、ここに梶田半古・下村観山なども参加してきますが、弟子である若い安田靫彦はここで歴史風俗画を研究し作品を発表しました。したがって安田靫彦を中心とする紫紅会さらには紅児会の作風は歴史画が中心となって当然でした。
紅児会のもう一人の中心人物・今村紫紅の師・松本楓湖は紫紅が入門した時すでに60歳近い老人でした。しかし楓湖は明治元年から菊池容斎に師事しています。この容斎という人は「画もと法なく又流れなし」といって流派を否定した人であり、モデルを使って人体研究をした人でした。当然、彼の作品に近代的な写実をもたらしたのです。こういう人に師事したのですから、楓湖ももちろん容斎の影響を受けています。楓湖の明治前期の作品とされる和装の西洋女性像があります。いわゆる横浜絵とよばれるものですが、彼がいかに写実的表現に興味を寄せていたかが判ります。
紫紅はこういう師に学びましたし、また紫紅自身開明的な性質でしたから、単なる伝統的な大和絵ではなく、そこに新しい要素を取り入れようとして当然でした。


 またしばらくしてから参加するようになった小林古径や前田青邨の師である梶田半古も菊池容斎に私淑しました。古径、青邨らが入門した当時、すでに挿絵画家として一家をなしていた半古は、明治31年日本美術院創設時には特別賛助会員として名を連ね、院展に出品する新派の画家でした。
今村紫紅、安田靫彦を中心とする紅児会が小林古径や前田青邨など新しい風を取り入れ、進歩的な研究団体として活動したのは当然の成り行きでした。
なお加えるならば、こういう作風が生まれたきっかけは他にもあります。
それは大観、春草が明治38年に欧米から帰国すると、琳派に着目し、色彩の研究を始めていたこと。また「天心の頭が観山の手になった」と言われるほど絵の上手かった観山は、すでに大和絵の技法をしっかり身につけ大和絵的作品を制作していたということです。大和絵的傾向がうまれる下地は充分にあったのです。
ところで明治40年に今村紫紅は安田靫彦とともに五浦に天心を訪ねています。そしてその時、天心から「君は故人では誰を学びたいですか」と聞かれ、即座に「宗達」と答え天心をいたく喜ばせたというエピソードも伝わっています。紫紅は宗達という名がまだ流布していなかった頃から宗達に注目し、作風に取り入れようとしていたのです。
なお明治44年には紅児会会員は席画を描かないと宣言しますが、これは絵画をもっと真剣なものとしてとらえる近代的絵画思考の芽生えでした。
Ⅲ 赤曜会の誕生

 大正2年8月に紅児会は解散しました。その一因は紅児会メンバーの作品が似通ってきたということです。みな同じような歴史画を描き、個人としての創意工夫が見られないと判断されたのです。
 紅児会の主要メンバーである安田靫彦、小林古径、前田青邨たちはすでに自力でやっていける存在に成長していました。特に紫紅、靫彦は翌大正3年に再興された院展の同人に迎えられるほど、大観・観山らの認めるところでした。でも彼らの跡を追う若手画家の多くはまだまだ力不足でした。そういう人たちの中心となったのが今村紫紅でした。こうして大正3年12月に赤曜会が誕生したのです。メンバーは紫紅を中心に、速水御舟、小茂田青樹、富取風堂、黒田古郷、牛田雞村、岡田壺中、小山大月でした。大正4年2月に目黒の夕日が丘で第1回赤曜会展を開催しますが、会場はフランスのアンデパンダン展にならいテント張りでした。6月の第二回赤曜会展からは中村岳陵も参加しています。
 ところで大和絵系の作風を身につけてきた安田靫彦、今村紫紅、特に紫紅は南画にも関心を寄せていました。大正2年には大阪で開催された中村悟一コレクションによる富岡鉄斎展に安田靫彦を誘って出かけています。また箱根滞在中の鉄斎を訪問したりしています。 もっともこの時は鉄斎不在で会えなかったのですが……。
 赤曜会の作風を一言でいうと大和絵風南画と言われ、大和絵的な色調に、南画的な自由でゆったりしたタッチが見られるものでした。このことからも、いかに紫紅の影響がつよかったかが判ります。
 ところで大和絵系の作風を身につけてきた安田靫彦、今村紫紅、特に紫紅は南画にも関心を寄せていました。大正2年には大阪で開催された中村悟一コレクションによる富岡鉄斎展に安田靫彦を誘って出かけています。また箱根滞在中の鉄斎を訪問したりしています。
もっともこの時は鉄斎不在で会えなかったのですが……。
赤曜会の作風を一言でいうと大和絵風南画と言われ、大和絵的な色調に、南画的な自由でゆったりしたタッチが見られるものでした。このことからも、いかに紫紅の影響がつよかったかが判ります。


 ところで紫紅らの師である松本楓湖はこの時すでに70歳を超えていました。もはや過去の作家でした。そして富取風堂に言わせると、その教え方は自由主義というよりも放任主義でした。何一つ教えてくれなかったと言っています。しかし楓湖塾には大和絵などの粉本が沢山あり、やる気のある者にとっては大変ありがたい塾だったのです。それに自己の確立を願う者にとっても都合のよい塾でした。この塾から師風とは全く違う今村紫紅や速水御舟という逸材が出てきたのも納得がいきます。
 紫紅が、何物にも拘束されず、自由に快活に自己の絵を描くことの大切さを主張するのも、こういう画塾に学んだからとも言えそうです。
 紅児会の作家たちは絵の勉強も良くしましたが、いたずらも相当なものでした。
 赤曜会展では気に入らない来客を殴ったり、原三溪からは大金をせしめたりしています。
 また大悪は大善なりと嘯き、赤字に黒く「悪」と書いたバッジを胸に銀座を飲み歩き、酔った挙句、道行く人に絡んだりしています。紫紅が大酒のみでしたから皆が右へならえをしたわけです。こうして飲めなかった速水御舟も飲むようになったということです。
 でも第2回赤曜会展では病気の紫紅を慰めようと、会員たちは9日間にわたり写生に行き(皆勤したのは速水御舟と小茂田青樹だけということですが)、その成果を紫紅宅に持ちよって研究し、かつ発表しています。速水御舟と中村岳陵が並んで写生した「横浜」という作品がとくに有名ですが、新しい画題をどんどん開拓していったのです。
 彼らは目黒近辺に住んでいましたから目黒派とよばれ、院展でも一目おかれていました。しかし大正5年2月の今村紫紅の死を契機に赤曜会は自然消滅的に解散となり、皆それぞれの道を歩むようになったのです。
Ⅳ 新古典主義的作品の誕生

 大正2年に岡倉天心が亡くなると、「親のない後は兄弟です」といって、大観、観山は互いに協力し、翌年には日本美術院を再興しました。ここに参集したのが安田靫彦、今村紫紅を中心とする紅児会のメンバーたちです。院展における次世代作家の台頭でした。
 親分肌であった今村紫紅が大正5年36歳で亡くなると、赤曜会の会員はばらばらとなり、例えば速水御舟は京都に行ってしまいました。今村紫紅的な大和絵風南画は消滅の運命にあったと言えます。それでもまだ伸びやかな作風は残っていました。小林古径「竹取物語」です。安田靫彦「五合庵の春」も既に暗い色調ながら、何かほのぼのとした温かみが感じられます。大観や下村観山でさえ、明るく、ゆったり、のびのびとした作品を制作しています。しかし紫紅的なものが否定されるというのは時代の趨勢でもありました。もう自由と希望に満ちた前向きの時代ではなくなっていたのです。
 大正3年、第1次世界大戦がはじまり、これに日本は直接には参加しませんでしたが、終戦の年・大正7年、富山の主婦から始まった米騒動は全国に広がり、暗く厳しい時代が待ち受けていたのです。貧富の差が激しくなってきました。おまけに大正12年には関東大震災が起こりました。こういう時代、人々は前進するよりも、後ろを振り向くのです。
 厳密に言うと日本に新古典主義の時代はあり得ないと言います。どういう意味かと言うと、西洋美術史上では古典主義と称す時代が存在し、そこに学ぶからこそ新古典主義と言うわけです。でも日本美術史上には古典主義という時代区分はありません。ですから日本で古典というとかなり曖昧となってしまいます。いわゆる日本の新古典主義作家たちは法隆寺金堂壁画から江戸時代の宗達・光琳派、いってみれば日本の歴史上の優れた全作品を視野に入れているといってよいくらいです。


 ともあれ日本には優れた伝統美術や文学がありました。院展の作家たちはそういったものに目をむけ、そこから吸収しようとしました。
 大正11~12年に小林古径と前田青邨が美術院から海外に派遣され、大英博物館で伝顧愷之筆「女史箴図巻」を模写したことも、この傾向を強めることになりました。この模写は困難を極めたようです。でもある日、小林古径が突然、突拍子もない大声で「ああ、勉強になったな」と叫んだと言いますから、いかに得るものが大きかったかも判ります。春蚕がはく糸のようなと言われる、優しさの中に凛とした厳しさを持つ高古遊糸描を彼らは学んだのです。帰国後の小林古径の描線を見ると、よくわかります。たまたま安田靫彦も日本にあって高古遊糸描を学んでいましたから、小林古径、安田靫彦らによってこの作風が推し進められることになりました。
 大正末から昭和戦前にかけて、いわゆる新古典主義的と言われる作品が沢山生まれてきますが、それは院展のみでなく、当時の日本画壇全体を覆った作風でもありました。大和絵のなかでも古土佐を現代に生かした松岡映丘はもちろん、川合玉堂などもこの時代、新古典主義的作品を残しています。浮世絵の系統を引く美人画家・鏑木清方でさえそうです。
 新古典主義は芸術至上主義を標榜し、技巧的、貴族的で完璧主義の作品等々と言われますが、近代日本画を非常に高度なものにしたのは確かです。
Ⅴ 新古典主義の後に

 完成度の高い作風にどうしてもついていけない作家も出てきました。それは技量が劣るという問題ではないのです。自己の価値観が新古典主義的なものではないということです。その代表が奥村土牛と片岡球子でした。
奥村土牛(1889~1990)はご存じのとおり小林古径の弟子です。もっとも最初は梶田半古門に入門し、半古が亡くなると兄弟子であった小林古径に師事するようになったのです。ですから小林古径は土牛のことをあくまでも兄弟弟子といい、でも土牛は古径を師と仰いでいました。
 新古典主義の代表とも言える小林古径に学んだ土牛の初期の作品を見ると、描線を重要視したものであることが判ります。でも小学校の絵の授業では、武者絵などを描くよりも、目の前にあるヤカンを描くほうがよっぽど楽しかったし、上手かったと、自ら語っているくらいですから、資質として写実に対する感性を備えていたのだと思います。そこが時代的に新古典主義よりもう一歩先を行っていたと言えます。
 奥村土牛が昭和30年に姫路城を描いた「城」を発表した時、「これを描くころから何か開放されたような気持ちになって、自由にのびのびと制作できるような気分になった」(『牛のあゆみ』日本経済新聞)というようなことを言っています。
 昭和30年というと、師・古径がすでに体調を崩していた時です。古径は昭和32年にパーキンソン氏病で没しているのです。ですからこの開放を、古径=古典主義絵画からの開放という人もいます。勿論、土牛にはそんな意識はなかったでしょう。でも多分そうなのだろうと思います。そしてそのころを境に土牛は真に土牛らしい作品、例えば『鳴門』『醍醐』『吉野』『海』などを次々と発表し、それは日本画を近代から現代に橋渡しすることになったと、私は思っています。


 近代に収まりきらなかった作家は他にもいます。片岡球子です。
 球子(1905~2008)は土牛より、もう一世代若い作家です。それだけに、その作品は土牛よりもっと荒削りで奔放なところがあります。それは土牛が京橋生まれの都会人であったのに対し、球子は北海道生まれというところにも由来しているかもしれません。春の訪れを感じると、雪の間からほの見える泥に鼻をくっつけてクンクンと春の香りを嗅ぎ、大喜びしたというエピソードは、球子の田舎育ちの野性を彷彿させます。
 戦前の球子は中々院展に入選出来ませんでした。落選の神様と言われ、球子が来ると知人は避けて通ったそうです。でも小林古径は違いました。球子の絵をゲテモノと言ったうえで「ゲテモノと本物は紙一重です。あなたは、そのゲテモノを捨ててはいけない。自分で自分の絵にゲロが出るほど描きつづけなさい。そのうちに、はっといやになってくる。いつか必ず自分の絵に、あきてしまうときが来ます。(略)そのときから、あなたの絵は薄紙をはぐように変わってきます。」といったそうです。さすが小林古径ですね。画家をよく見ています。でもその絵は、新古典主義を代表する小林古径とは全く異なるものでした。他の者が真似することのできない斬新で個性的なものでした。まさに新しい絵画の誕生だったのです。
 今でも球子の作品は日本美術院では異質かもしれません。でも現代という時代に最もふさわしい作品なのではないでしょうか。