絵の道を歩く原点と院展初出品

玉県秩父の山村に生れた私は物心ついた妙い頃から病身の父の枕元にて看病役でした。その暇をみて絵を描いた。父はその絵を見舞客が来るたびに見せた。見せられた人々は感心な子供と思い、その絵を褒めたててくれた。褒められた嬉しさで熱心になり、これが画家になる原点となった。12歳の春、桜吹雪の下で父を野辺に送り、その桜の花が私の心の花になった。桜吹雪の奥で父が笑顔で「がんばれよ」と励ましてくれた。17歳のとき絵を学ぶために上京する私を庭先まで送り出してくれた母が「どこでどう生きようと「正直に生きるんだよ」と言われた。その言葉を大切にした。
 その後、川端学校にて油絵を学び、浦和市の本屋さんのお世話で旧制浦高(現埼大)の図書館に勤めた。その浦高校長の沢田源一先生が東京美術学校(現芸大)校長となり、私を同校文庫の職員に採用してくれた。文庫は(現)図書館と美術館で美術の図書・標本・作品もいっぱいある、正に美術の宝庫で、そこに勤められたことは私の人生を開かせてくれた。学科準備室の仕事も兼務し東洋・西洋の美術史を学ぶことができた。当時油絵を同校教授の藤島武二先生に学んだ。そして昭和20年、東京空襲で住んでいた家も作品も総て焼かれた。その後油絵から日本画に転向するときも、東美の東洋美術史教授の鎌倉芳太郎先生にお世話になり、院展出品の道が開かれた。日本画を学ぶために妻子を秩父において1人上京し、文庫や師の家に通い学んだ。
 昭和23年春の院展に「少女」、秋の院展に「はつなつ」写真マークが初出品初入選し院展にての歩みの出発となった。一番うれしい初入選。そしてさらなる希望と目的を遥か遠くにおき一歩一歩の歩みを決意した。遠い苦難な歩みこそ生きがいがある。戦争と貧しい中での生活が生きる根っこになった。私の日本画の師小谷津任牛先生そして奥村土牛先生とも、師小林古径先生のことば「絵は手で描くのではなく心で描くもの」と教えられた。秋の院展初出品の「はつなつ」、翌年の「野」等、特に「野」写真マークはほとんど緑「緑青」で描き、全画面を生き生きした風景の中に小さく少女と犬を配した絵となった。戦後の困苦を生き抜こうとした心根が爽やかな作品になったものと思われる。