平山先生を悼む

「平 山先生と初めて言葉を交わしたのは、私が東京芸術大学に入学した1961年、秋の院展会場でだった。秋とはいえ、美術館の中は汗が吹き出すほど暑い日。会場を巡っていた私の足は、1枚の絵の前で動けなくなった。今日、先生の代表作の一つとされる「入涅槃幻想」だった。
 死にゆく釈迦の体が柔らかな金色の光を発し、悲しみに沈む弟子たちを包む。心の平安を映すように白い鳥が舞っている。画面から漂う厳かな空気、深い静けさ。すごい絵だなと思って見ていると後ろから「田渕君」と声をかけられた。振り向くと平山先生がおられた。
 入学して半年にもならない一学生の顔と名前を覚えておられることに、正直、とてもびっくりした。「君はいい絵を描くから知っていたんだよ」と後になって言われたが、本当は一人ひとりの学生を丁寧に見ておられたのだと思う。
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 先生の、というより芸大における先生方の指導法は、伝統的に何も教えないというものだった。教授は制作中の絵が並ぶ教室を、入り口から入って順番に見て歩き、反対側の出口から出て行く。その間、一言も発しない。教えを請えば助言はもらえるが、どこがどうとは決して言わない。自分で考えて解決する。それでできないようではだめだ、という姿勢だった。
 その代わり、作品が完成した後には厳しい批評が待っている。私は芸大卒業後も、しばらく平山先生が指導する院展の研究会で学んだが、その間に生涯忘れられない言葉をいただいた。「田渕君の絵はカミソリの切れ味だけれど、カミソリで大木は切れないよ。ときには鉈の激しさもなければ」。こう言われたのは、私が細密な線ばかり描いていたときだった。
 また、私が67年から1年のアフリカ滞在を終えて、帰国した後のこと。現地に大量にスケッチをしてきたつもりが、いざ創作にとりかかろうとすると全く足りない。「もっとたくさんスケッチをすればよかった」と先生に話すと、「君ね、もし、こちら側に伸びる萩の枝1本を描けるとしたら、反対側に伸びる枝も描けるんだよ」と諭され、はっとした。
 ただ物の表面的な形を写すのでなく、本質をつかめ、と先生はおっしゃったのだ。時折、思い出しながら絵に向かってきた。
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 シルクロードをはじめ、インド、ヨーロッパ、中国など世界中を旅された先生に、私もよくお供をした。朝からスケッチを始め、日が暮れるとホテルに帰らなければならない。夕方になると先生は決まって「(日没まで)あと何分ある」と聞く。私がそろそろ帰りましょうという意味で「30分です」と答えると、先生は「30分もあるならまだ描けるね」と筆を動かし続けた。ホテルで夕食を済ませると、1日のスケッチをすべて水彩で薄紙に写す。それが終わるまでは、寝酒を召し上がらなかった。その精力的な描きぶりは、私など到底まねできないと思った。仏陀を描き、三蔵法師の来た道をたどり、シルクロードを旅した先生の画業と人生に深く根を下ろしていたのは、広島における被爆体験だったのではないかと思う。
 原爆投下の日、先生は兵器廠の建物の外にいたという。空を見上げるB29が飛んでいる。きらり、と何かを落としたのが見えた。建物に飛び込み、友人に「おーい、何か落ちて来るぞ」と声をかけた瞬間、ぴかっという閃光に貫かれた。
 その後、黒い雨が降った。のどが渇いて仕方がない。周りの人々はその真っ黒な水を飲んだが、自分はついに我慢し通して一口も飲まなかった。そんな話をうかがった。
 多くは語らなかったが、先生も原爆症に苦しめられた時期があったという。「それを克服できたのは、旅に出て、仏教の道をたどったお蔭です」と、あるとき語られた。先生にとってシルクロードをたどる旅は、求道、あるいは巡礼、鎮魂の旅だったに違いない。
 ご自身、死の淵をのぞき、数え切れないほど多くの人々の悲惨な死に立ち会った。その命を背負って一歩一歩歩かれたのではないだろうか。修羅の場にいたからこそ「僕は原爆の絵は描けない」と永い間、おっしゃっていた。その封印を解き「広島生変図」に取り組まれたのは、戦後30年以上たってからだった。
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 「絵描きは絵だけ描いていてもだめだ。世の中とつながりを持たなければいけない」。そう常々話されたように、先生はユネスコや日中友好にかかわるお仕事など、本業以外でも活躍された。海外に眠る日本の文化財の保護にも力を尽くされた。そうした活動の根底にあったのも、文化を通じて世界の平和に貢献したい、という強いお気持だったと思う。私も先生と一緒に、アイルランド・ダブリンにある図書館へ、ひとり日本の文化財を守って奮闘している日本人女性を訪ねたことがある。日本の研究者も知らないような無名の図書館だ。「外国にある日本の文化財は、どんな小さなものでも日本文化を紹介する大使なのだから、それを大切にすることが世界の平和につながるんだよ」と先生は熱く語られた。
 戦後まもないころ、日本画は古い伝統や因習をひきずった悪しき文化の象徴として攻撃された。それに対し、新しい日本画を志し、闘った最後の世代が平山先生や加山又造先生。横山操先生らだった。先人たちの努力の上に今日の日本画の礎は築かれた。その遺産を引き継ぎ、さらに日本画の未知の可能性を開くことが、残された私たちの使命だと思っている。
(日本経済新聞 平成21年12月3日掲載)