故平山郁夫前理事長「お別れの会」2,600余名が別れを惜しむ

Previous
Next

                    

 昨年12月2日に79歳で死去された平山郁夫日本美術院前理事長の「お別れの会」が2月2日、東京都港区のホテル「ザ・プリンス パークタワー東京」で執り行われ、三笠宮崇仁親王殿下をはじめ、美術界、政官財界の関係者や各国駐日大使ら約2,100名が参列して別れを惜しみました。
 白い花で彩られた祭壇には、穏やかな表情の遺影と平山先生が描いたシルクロードの作品からイメージした太陽と月の屏風が置かれ、天皇,皇后両陛下、皇太子、同妃殿下、三笠宮殿下からの供花や文化勲章などが飾られました。
 「お別れの会」委員長を務めた松尾敏男日本美術院理事長は「絵画が社会に対してこの様に大きな啓発力を持ったというのは嘗てないことでした。絵画の持つ社会への貢献は、先生の業績の大事な一つであると考えます。先生はそこに止まらず、常に日本文化の世界への発信ということを強く発言されました。先生の心は永遠に日本美術院と共にあります。日本美術院は常に一つです。」と弔辞を述べました。
 その後、「お別れの会」副委員長宮田亮平東京芸術大学長、松浦晃一郎前ユネスコ事務局長が弔辞を述べ、続いて、鳩山由紀夫内閣総理大臣や胡錦濤中国国家主席、ニール・マクレガー大英博物館館長の弔電が読み上げられました。
 東京藝術大学音楽学部教員による奏楽の中、参列者献花に移り、列は会場の外にまで伸び、時折、先生の遺影を見上げ、目元をぬぐう参列者の姿も見られました。
 午後1時30分から3時までの一般の献花には、約500人が平山先生との別れを惜しみました。
 多くの皆様方にご来会いただきましたこと、心より深く感謝申し上げます。

                                                       財団法人日本美術院

                                    弔  辞

 平山先生の御霊前に謹んで申し上げます。
近年体調を崩され勝ちとの話は耳にしておりましたが、昨年の再興第94回院展にて「文明の十字路を往くーアナトリア高原カッパドキア・トルコ」と題されたお作品に接し、気力体力共に充実されておられる御様子と感じ、安心しておりましたのに突然の訃報に接し、大きな衝撃を受けました。一瞬、院展はどうなるのかとの不安を持ちました。先生の強い指導力と牽引力に頼り切っていただけに突然先達を失った旅の集団の様でした。
 そして、60年にわたり先生が院展を軸として果たしてこられた大きな業績に思いを致し改めてかけがえのない方を失った哀しみと喪失感を抱きました。
 若き日の「仏教伝来」に始まるシルクロードの道は先生の生涯を通しての大きな流れとなり、シルクロードという言葉自体も画壇のみならず社会の中で定着し、改めて一般の人々に日本文化の原点やその流れを考えるきっかけを作ったと言えます。絵画が社会に対してこの様に大きな啓発力を持ったというのは嘗てないことでした。絵画の持つ社会への貢献は先生の業績の大事な一つであると考えます。先生はそこに止まらず、常に日本文化の世界への発信ということを強く発言され、世界の各地で収まりを見せぬ紛争に心を痛め平和への思いを強く持っておられました。
 アフガニスタンの大事な遺跡である「バーミアンの大佛」の保護にも心を砕かれ、破壊を宣言しているグループの上層部に会って貴重な人類の遺産であることを説得したいと語っておられました。その効もなく大事な佛跡は失われてしまいましたが、平山先生は世界の文化遺産の保護や修復を目指す文化財の赤十字という構想を抱かれその運動に心を尽くされました。
 全ての点で従来の画家から懸け離れた大きなスケールと卓抜な洞察力と計画性を兼ね備えた偉大な存在であった方でした。惜しむに余りある思いです。
 病を得られてからも旺盛な制作意欲は衰えることなく最後の入院となった病室でも湧き上がる構想を次々と下図にし、その制作を家人に語っておられたと聞きます。私も亡くなられてから鎌倉へ伺いました折、主なき画室に今年の奈良遷都1300年を記念する催しに出される予定との大きな屏風の下図が中途のまま張ってありました。当時の奈良の都の俯瞰図でもう殆ど構想が決まっておられたように見受けられました。勢い余ったのか強く引いた線が紙を破ったところもあり、この制作にかけておられた熱意がその下図にほと走っていました。病室では、花の写生もされたそうです。平山先生が描かれる花。病との苦しい戦いの果てに到達されたであろう心境の作にもう接することが出来ず残念です。
 一生を戦い続けてこられた平山先生が花で語ろうとされたのは何であったのか、それを知る術はもうありませんが、常に上を見て歩き、世界の悪なるものとの戦いに努力を続けられた先生がふと足元の花に手を差し伸べられたのは、自分自身への自分からの感謝の思いだったのかと思います。
 私が平山先生の作品に初めて接したのは昭和29年の春の小品展に初入選で奨励賞を受けられた「海浜」と題する作品です。それ以後「漁夫」や綱を引く漁師達など先生の故郷である瀬戸内の風土や人々を描かれました。
 どんな偉人や勇者であっても、普通の人達と同じ形で死は訪れます。それは神様の愛だと思います。今迄、人の何倍も努力をし、心を尽くした戦いの生涯を、もう充分だから普通の人になってよいのだとの神様の思いやりではないのでしょうか。若い頃描かれた瀬戸内の風土や人々の世界。その故郷に今、先生の魂は帰って行かれたのだと思います。先生が亡くなられた後に私は平山美術館の館長さんからお電話を頂きました。行方不明であった昭和33年春の小品展の出品作「漁夫」が所在が分かり戻って来たとのお知らせでした。
 作品と共に平山先生も愛する故郷へ帰られたのです。
 どうか安らかにお眠り下さい。本当に有難うございました。
 日本美術院全員からの感謝と御礼の言葉と致します。
 お別れは申しません。先生の心は永遠に日本美術院と共にあります。
 日本美術院は常に一つです。

                                                 平成22年2月2日
                                                 日本美術院理事長
                                                 松 尾 敏 男

スライド写真の左にあります▲印をクリックされますと、お別れの会のご報告、松尾理事長の弔辞をお読みいただけます。