“搬入のちょうど1週間前ということで大震災で出品できなかった人に、 松尾先生から一言。”

司会者(宮北千織同人)
まず、搬入のちょうど1週間前ということで大震災で出品できなかった人に、 松尾先生から一言。

松尾敏男理事長
まず地震の後、事務局とも話をしましたが、恐らく、 今回は100点ぐらいは搬入が減るでしょうね、 ということを。東北関係が多いものですからと予想していましたが本当にその通り100何点か、101点か102点ぐらい、いつもよりも 出品が少なかった。私の所へも北海道の人とか青森の人あたりから、作品はできているけれども運送をしてくれない。だから、運送の手立てがつかないものですから、今年の出品はあきらめます、という、非常に気の毒なお電話を頂いたりして、その他にも山形あたりの方はかなり無理して搬入されたと思いますが。福島とか直接宮城だとか、あの辺の人たちは本当に直接被害にあっている人たちに人的被害があったかどうか、それもまだ今のところはっきりしないですけれど。作品が出なかったということは本当に残念なことと思います。
しかし、、その100点から水準そのものは決して変わったわけではなくて今年も非常にいい作品が入選をしていることで、私は水準が保たれているなという感じがいたしました。特に今日は、初めての方にお越しいただいているわけですけれども、私たち、、見てこられた方からいつも聞く言葉として、初めてのが一番良かったですねって言う声をよく聞きます。私も何度か会場で見直しましたけれど、本当に、初めての人はどうしてこんなに良い絵が描けるんだろうって。このことは、自分たちが初入選者だったことを考えますと、我々本当に、幼稚な、いわゆる下手くそな絵を描いて、まあそれでも初入選だというのは、ちょっとういういしいところがあるのか、一所懸命やってることが恐らく認められて、初入選したと思うんですけれども、今の初入選の作品は、どの方の作品見ても、勿論その純な気持ちというのは最初の気持ちで、それが清々しいと同時に技術的に見ても、非常に完成度の高い作品ばっかりだったと言う点で、非常に驚きましたね。
今の初入選の方というのは内容だけでなくて、技量から言ってもかなり、錬磨に錬磨を重ねたような、優れたものがあって、両方相まってるのではないかなと感じがまずしました。


座談会の出席者

宮北先生と松尾先生
 
  • 宮北先生と松尾先生
    右が松尾敏男(まつお としお)理事長
    左は司会進行役の宮北千織(みやきた ちおり)同人
  • 乾さんと柳田さん
    右が栁田晃代(やなぎだ てるよ)さん
    左が乾 露予(いぬい みちよ)さん
  • 新谷さんと楯さん
    右が楯 麻子(たて あさこ)さん
    左が新谷 有紀(しんや ゆき)さん

座談会は2011年4月15日に日本美術院で行われました。

“自己紹介を兼ねて、出品をすることにしたきっかけなどをお話いただければと思います”

多分、この中で一番年長かと思います。大学時代は松尾先生のクラスで4年間勉強させていただいて、公募展は学生の頃に何回か挑戦はしたんですけれども  - 栁田晃代さん

司会者

では、皆さんへの質問に移りたいと思います。自己紹介を兼ねて、出品をすることにしたきっかけなどをお話いただければと思いますが、まず乾さんから自己紹介等をお願いいたします。

乾 露予
乾 露予(いぬい みちよ)と申します。よろしくお願いいたします。きっかけは、やはり恩師が院展を見ておりまして、そして敷居がかなり高いかなと思ったんですが憧れもありまして挑戦させていただきました。入選の話を聞いたときは、驚きすぎて、とりあえずは初日の展示を見るまでは信じられない気持ちでした。

司会者
今までも、何度か出品なさっていたんですか?春も秋も?


はい。

松尾
何年ぐらい出してらっしゃたんですか?


4年です。

松尾
秋はまだですね?


はい。

司会者
それでは、次は栁田晃代さんさん。お願いいたします。

乾 露予
 
  • 乾 露予
    “入選の話を聞いたときは、驚きすぎて、とりあえずは初日の展示を見るまでは信じられない気持ちでした。” - 乾 露予さん
    © 2011 日本美術院 All Rights Reserved.

栁田晃代
栁田晃代(やなぎだ てるよ)と申します。よろしくお願いいたします。、多分、この中で一番年長かと思います。大学時代は松尾先生のクラスで4年間勉強させていただいて、、公募展は学生の頃に何回か挑戦はしたんですけれども、その後は個展だとか、グループ展だとか、そういう活動したり、また主婦になったり、子育てをしたりという途中経過があって、ここ2年、3年ぐらいに、このままでは絵を描かないまま終わってしまうのではという、凄い不安感があって、また挑戦したいなという思いで再開して、2年目になります。で、、震災のあの地震の最中で、いっぺんに生活をまわすことで精一杯になってしまって、兎に角、、搬入できるかどうかっていう思いでし、。搬入したところで、全て自分の中で終わってしまっていて、、通知をいただいて、封を開けるまで当落のことは全く頭の中に無い状態で、開けても暫く信じられなくって、本当に、お話にあったように会場で自分の絵を見て、あー、本当だったんだと思いました。描くのを本当に再開できたのが、まだ、とても嬉しい段階だったので、本当に思いがけないことで、とても驚きで嬉しく思っています。

松尾
栁田さんは、まあ、年長者となってしまったんですけど、比較的新しいですよね。院展に出品しようと思ったのは去年、あたりからでしょ?

栁田
はい。あと、大学を出たときに一回・・・。

松尾
すぐに結婚されたたんですよね、確か。それで、、ずーっとブランクがあって。大学中はね、今、一緒だったら、牧野伸英、それから辻村和美さん、そして、今年入選している楢原環さん、実は一緒ですね。この人、昔、斎藤と言ったんですけど斎藤さんが一番優秀だったんです。学生のなかでは。だから、私は今でも、中国の豚を描いたのをよく覚えているんですけどね。何とかという豚と、梅の何とかと言う、皺だらけの豚だ。それを写生して描いたのが、すごくいい絵だった。それでずっと覚えています、。確か2年生か3年生ぐらいでしたか?

栁田
多分、2年生だったと思います。

栁田晃代さん
 
  • 栁田晃代さん
    “兎に角、搬入できるかどうかっていう思いでした。搬入したところで、全て自分の中で終わってしまっていて、通知をいただいて、封を開けるまで当落のことは全く頭の中に無い状態で・・・”- 栁田晃代さん
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松尾
それからずっと、かなり優秀だなっと思ってましたけれど、そういうことで卒業してすぐ出して、そして何十年ぶりぐらいに。また、持って来られるようになった。2年目ということで、早い入選作品だったなという感じはしましたね。

司会者
では、次、新谷さんお願いします。

新谷有紀
新谷有紀(しんや ゆき)と申します。今、大学院に在籍しているんですが、その前に、実はもうひとつ別の大学院に所属しておりまして、筑波大学なんですけれども、斎藤博康先生に修士課程の時に指導いただいていて、その際も、出していたことがあるのですが通ったことがなくて。それから、何年かたって、やはりもっと絵や素材について勉強したいと思って、で、今、保存修復に入学して、さらに古典研究、模写と同時にやはり模写で得たことを自分が制作に生かすっていう、昔からの日本画の精神をやっぱり中に取り込んで勉強したい、より深めたいと思ったので、やはり作品を院展に出そうと思って何とか頑張って、今回初めて通ることができました。

松尾
今までも何回か出品されてます?

新谷
はい。

司会者
春も秋も?

新谷
はい。

松尾
秋はまだ?

新谷
入ったことはないです。

松尾
でも、これだけ、描けるんでしたら。すごくよく絵を知っている人の絵だな、この作品を見ましてね。この人が初入選かなと思うくらいに非常に絵というものをよく理解して、で、自分の世界をこう作り上げている絵だなって、そういう感じがしました。今、発言した他の人も含めてだけど凄いな、って思いますよ、それは。

新谷有紀さん
 
  • 新谷有紀さん
    “昔からの日本画の精神をやっぱり中に取り込んで勉強したい、より深めたいと思ったので、やはり作品を院展に出そうと思って何とか頑張って、今回初めて通ることができました。” - 新谷有紀さん
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新谷
私も他の方と同じに、折角一所懸命、絵に自分の情熱を傾けて来て、それでもギリギリになって出せるかどうかがわからない中で、本当に他の人も絵を描いているんだろうかって思いながら描いていて、で、入選の知らせをいただいて三越に見に行ったらたくさん凄い密度が深くて、もっと執着が強い、自分の生き甲斐として絵をやってらっしゃる方がこんなにいっぱいいるんだって。
凄く、驚きと共に出してよかったって思いました。凄く、思い出に残る、会だったと思います。

松尾
まだ、大学院に在学中?

新谷
はい、今、修士の2年です。

司会者
よろしいですか?それでは、楯さんお願いします。

楯 麻子
楯 麻子(たて あさこ)と申します。研究室の修士に入って、手塚雄二先生と吉村先生・・・

司会者
じゃあ、第三研究室(東京藝術大学大学院日本画第三研究室)ですか?


はい、第三研究室です。それで、今お二人に指導を受けてて、院展のこととかも、よく話していただいて、まだ自分の実力もまだちょっと自信もなかったので、先生に黙ってこっそり描いて。

司会者
そうすると、初出品?
初出品で初入選。


入らないと思って、誰にも見せないで、こっそり描いてこっそり出した訳だったんで。

楯 麻子さん
 
  • 楯 麻子さん
    “入らないと思って、誰にも見せないで、こっそり描いてこっそり出した訳だったんで。” - 楯 麻子さん
    © 2011 日本美術院 All Rights Reserved

松尾
怒られましたか?


はい。いや、ちょっと口調は強かったですけれども。入ったなって。それは嬉しかったですけど。

松尾
それは、宮廻先生?


いや、手塚雄二先生です。
でも、まだ、会場に行くまで、ちょっとあるかなっと思って。ちょっと恥ずかしいところも。嬉しい反面、先生方と並ぶとまだまだちょっとというところが、恥ずかしいところがあって、色々な面で勉強になった気がします。
嬉しさと同時にやらないとと思いました。

松尾
でも、今、楯さんがおっしゃったようにね、その恥ずかしい部分があるって言うけど、我々にとってみると、我々から見ると、まあ、私たちはもう、宮北先生は若いけど、私なんかもう60年以上院展で描いてますからね。出品して、もう60何年になるわけでしょ。そうすると、恥ずかしいけれども、という気持ちは、とても本当は大事なんだなって感じるんですよね。常にそういう気持ちを持って、制作をしていればいいけれど、ついつい、我々どうしてもこう、出すに従ってベテランになってしまう。まあ、ベテランだって言われる場合もあるし、自分でも、あー自分はもうベテランだななどと思うようになったら駄目なんで。やっぱり、最初のこのような初めての人たちが持っていたときのようなその初々しさ、それをやっぱり無くさないで欲しいなと思いますね。だから、これは、昔、チャーリー・チャップリンの、ライムライトっていう、皆さんきっと若いから、ご覧になったことないと思いますけど、その中に、チャーリ
ー・チャップリンが年をとった喜劇役者で、もう今は中々売れなくなって忘れられているけど、それがもう一回復活して、舞台に出ることになった時に、あの古い仲間のマネージャーかなんかからあなたはもうベテランなんだから、って言われた時に、いや我々はみんな、生涯アマチュアですよっていう返事をするところがある。だから、生涯、これ初入選だっていう気持ちでこれからずっとやっていかれて、もうベテランだからって思う時ができるだけないように、してほしいなってことが皆さんを見てて自分がそう思いますけどね。自分がベテランになってはいけないんだなって思いますけど。やっぱりこういう皆さん持っているのを見ると、非常に前向きなものがありますね。それが、段々ベテランになってくると、あーこういうもの描けば入選するなとか、この程度絵ができていれば入選するだろうなと思ったときに、大きな落とし穴が来るんですね。ですから、常に初入選した時の気持ちを持ち続けるという前向きに描いていくんだという自分の思っていることを前向きに描いて行くんだという気持ちさえ失わなければ、常にアマチュアであり続けられる。初心者で、あり続けられる。その初心者であるということが、実に本当は難しいことなんですけどね。
秋の院展で3回入って院友になりますけどね、トントンとはいくけど、トントントンとは行かないよってよく言われました。つまり、初入選した次の年は入ると、ところが、今度もう一回入ると院友だなって思った時に躓くっていう。そういうジンクスがあるんですよ、よく先輩から言われましたけどね。ということは、結局、今度入ろうとしちゃう、訳ですね。最初は入っちゃたんです。で、2回目ぐらいも、まだ入っちゃんだ。ところが、3回目になると、今度入ると院友だから、何とか入選しようと思った時に、そこに落とし穴が来るんだということを先輩の人たちが我々に教えてくれたと思いますけどね。だから、初心を持ち続けるって自体難しいことだけども、やっぱり一番大事なことかなと思いますね。

“先生ご自身が出品されるきっかけになったお話や、そのころのことを伺えたら”

司会者
今の初入選の方達と、松尾先生が出品されはじめた頃とは状況が大きく違うと思いますけど、先生ご自身が出品されるきっかけになったお話や、そのころのことを伺えたらと思います。

松尾
私ね、春の院展というのは、一番最初、昭和20年に始まった、日本美術院小品展が最初だったですが私は、昭和22年の第2回に初めて出品して、これは、すぐに入ったんです。あの頃は本当に小品展というより、今でいえば12号ぐらいの大きさが限度で、皆、だから小品を出したんですよね。会場は三越でしたけれども。問題だったのは、秋の院展の方で、あの頃ね、秋の院展は、彫刻部もありました、で、旧美術館の絵を11室ぐらいまでしか、使えないような状態で、それでも戦前に比べれば、入選が増えて、

“戦前はどうかすると、入選者5、6人っていうことがあったそうです。相当厳しかったそうです。だから、同人が多くて入選者が少ない、そういう展覧会があったそうです。私の頃は、随分入選者が増えたけど、それでも入選者が100名ちょっとぐらいですか。”

今のようにように600点もくるなんてことはまずなかった、入選基準も割合厳しくて、100点ちょっとぐらいが入選したのじゃないのかな、との感じがありますけど。私は、その時は3回院展で落選して、秋の院展は。21年に始まった再興院展の戦後になって初めて開かれた展覧会から出すようにして、21年、22年、23年と落ちて、24年の時に初めて入選したのですが。1回目、2回目、3回目と描いて駄目だったというのは、やっぱり、何かこう絵をうまい絵を描こう、うまい絵を描けばいいんだっていう感じで、どうもやっていたような気がするんですよね。4回目の時でしたけれど、その私は、まず3回目の、落選をしたときに、落選って経験した方わかると思いますが、本当に深い穴の中に自分が落ち込んでくる気がしませんでしたか? がっかりして。やっぱりそれを、3年間続けて味わってましたからね、で、3回目の時には、やっぱりそういう気持ちに捕われてはいけないから、何とかして、早くここから抜け出さないといけないなっていう気持ちがありました、まず、落選をした翌日に上野の国立博物館へ行ったんです。そしていいもの見れば、多分自分の気持ちがある程度癒やされるのかなって気持ちがあって、まあ、要するに救いを求める気持ちだったと思いますけども。上野の国博へ行って、たまたまその時、地下の展示室に埴輪がずっと並んでましてね、そして、埴輪を見ているうちに、なにかこう埴輪って皆にこやかに笑って、微笑んでるでしょ。で、その微笑んでいる埴輪が、こちらの方にむかって、入選、落選なんて大したことじゃないんだよって言ってくれるような感じがしたんです。そこで、しかもその埴輪見ると、千何百年か何千年か前の人たちの指の後がついているような感じがして、その時代の人と、埴輪を通して向き合っているような感じがして、非常に気持がそこで和やかになったというか、

松尾敏男理事長
 
  • 松尾敏男理事長
    “馬場不二さんが恐る恐ると、堅山先生に松尾君はどうでしたかとお聞きしたら、松尾、入ったよって南風先生がおっしゃって、それで知ってた訳です。僕はそれを聞いて、ほっとして、それでやっと先生のところへ来たと。それが、僕の初入選の思い出ですよ。”
    © 2011 日本美術院 All Rights Reserved

そうだ、入落なんて大したことじゃ無いんだなって、今までは一生懸命、花を咲かそう咲かそうと思ってたけど、そうじゃなくて根っこをはれば花は自然に咲くんだなって、その時、ふっと思ったんですね。それで、その日からすぐ埴輪の写生を始めましてね、それで何日間か通って埴輪をいろいろ写生してて、翌年に何を描こうかな思った時に、やっぱり埴輪を描こうと、春の院展、春の小品展でまず、埴輪を描きました。それも入選させていただいて、もう一回、秋になって、埴輪を描こうと、それで、やったけど、描いてはいるけど中々上手くいかないで、ある程度、できてはいるけれども、どうも納得いかないところがあって、その頃、非常に親しくしてた先輩の方がいらっしゃった。その方、院展にずっと出していらっしゃって僕と塾は違って、私は堅山南風先生の門下だったけど、その方は郷倉千靱先生の門下の方でね、40歳になるまでまだ入選はしなかった。若いときに色々抽象的な絵をやったり落合朗風さんがやった明朗美術展なんかに所属しててね、抽象的な絵を描いたりしてた人で、やっぱり院展でやりたいといって、具象に戻ってきて、何回出しても落選をしていて、その方が私が入選する1年前に初入選して、その時、40歳か41歳くらいでしたかね。名前は、皆さんご存じないと思うけど、馬場不二という、方なんです。その方が、私の描いているところへ見に来てくれましてね、そして、僕は埴輪で、ほとんどできあがっている絵なんだけど、その方が、松尾君、これね一回全部消すといいよって言われたんです。全部消しちゃえっていうんですよ。もう、どうやって消すんだろうって言うと、胡粉か何かを上から全部かけちゃえばいいんだ。まあ、半信半疑だったけど、それをやって見たんです。胡粉で一回全部消してしまって、微かに埴輪が形だけ見えるんですけどね、今度それを頼りにしながらそこに筆を重ねていって、バックも塗り直してやって、出品をしたらば、それが初入選になった。だから、そうだ、自分ができたと思うところがまだ半分なんだな。自分ではできたと思ってたんだけど、それが半分であった。本当は、それから絵を描くことが始まるんだ。で、その時に、たまたま本を読んでましたら、速水御舟さんの言葉が出てましてね、速水御舟さん、やっぱり若いときは、埴輪を描いてます。これは今でも、確か山種美術館にあると思いますけど、炎の中に、埴輪が1つ大きい。やっぱり、上手くいかなくて、どうしたらいいかって迷っていたところに、先輩である今村紫紅さんがブラッとやって来られたんで、紫紅さんに、どうもうまくこれから先が進まないけど、どうしたらいいだろうって聞いたところが、紫紅さんが、一回消しちゃえばいいんだよって、おっしゃったそうです。で、それから、消してそれからどうするんです?って聞いたら、そんなこと知らんよって言ったそうです。それで、思い切って全部潰してしまって、それからもう一回描き直したこと、御舟さんが書かれたのを読んだことがあります。馬場不二さんに、一回消せばいいって言われたことは、つまりそういうことだなって。つまり、自分では、完成したと思っても本当はそれは道半ばなんですね。本当の道って言うのは、所謂胸突き八丁っていいますけどね、富士山だって8合目ぐらいまではスッスッと行くけど、それから先の1合か2合、辛いっていいますよね。

その馬場不二さんて方ですけどその後ね、入選されてから梅の絵を描いて大観賞、その翌年に今度、冠鶴を描いてまた大観賞をとられて、

そして、昭和31年の3回目で松を描いてこれも大観賞、3回続けて大観賞。清原 斉さんと一緒に、その2人がずっと3年間一緒に大観賞をとった。それで、清原 斉さんはその年の5月頃に胃癌を発症して、手術をしながら、一番最後の作品を寝ながら長い棒の先に筆を付けてもらって、それを寝ながらという状況で絵を描かれていたそうです。

それが、最後の作品です。馬場不二さんも肺癌で、やっぱりそれも半年ほど前にわかったそうです。やっぱり寝ながら制作をする状態で。第3回目の大観賞をとられて、お二人が一緒に同人推挙されたんです。清原 斉さんは同人推挙の1週間目の9月の10日前後でしたけどね、病院で亡くなりました。それから、馬場不二さんは、10月9日頃になって亡くなりました。お二人とも、同人になって一緒に癌で亡くなりました。そういう方が、家の近くにいましてね。しょっちゅう行き来をして、僕とちょうど20歳くらい年が違って、僕が二十歳のころ、馬場不二さん40歳だったから、本当、大先輩ですが所謂友達付き合いみたいな感じで、よく、松尾君、松尾君て家にも来られたし、それからしょっちゅう馬場さんの家へ行っちゃ、ヨーロッパの絵なんかを話し合ったりして、そういう間の人達だったけど、同人になってすぐに亡くなったということもありましたけど、出会いが自分にとって一番大きな収益だったかなと思います。本当の絵って一体何かということを、よく話したものですよね。まあ、そういう経過があって、私も初入選ができたけれども、それこそ、初入選がわかるまで、皆さんそうだと思いますけど、ドキドキで大変でしたよ。その頃、中央郵便局に勤めていたんです。若い時。結局、絵では食べられませんからね。かといって、兄たちのお世話ばっかりなっている訳いかないから、自分の食い扶持ぐらいは自分で働かなければということで、人に頼んで、夜働ける所っていったら郵便局だった、夜中に働けるから、そこ紹介されて、ずっと7、8年でしたけど郵便局勤めて、その最中だったですが、今日発表で先生達が審査をしているなって時にはもう昼間から胸がドキドキドキドキしているわけです。今と違って、電話なんかそんなにありませんからね、結果を聞くのは自分の方で先生の家にいかなかれば解らないわけです。5時に勤めが終わって、それから先生の所へ、先生、世田谷にいらしたけど、世田谷まで行って聞くの気が重いなって思って、でも行かなきゃいけないなと思って、それで、まず銀座まで出てきて、今でも覚えてますけど銀座の森永っていう喫茶店に入ってそこでコーヒーを飲んで、座ってね自分で脈をとってみた。そしたら脈が、じっと座ってるのに100いくつある。それだけ、胸が動悸がしてるんですよね。それから、玉川電車にのって世田谷の方へ向かいましたけども、やっぱり怖くて先生の所へ行けなくて、その途中の馬場不二さんが住んでいたところへ、つい寄ったんですね。先生のところ、怖いからいけなくて。馬場不二さんのところへ訪ねていったらば、奥から出てきて、松尾君おめでとうって言ってくれたんです。入ったよって。どうして馬場不二さんが知っていたかっていうと、その頃、馬場不二さんは、上野の駅まで行ってたんです。美術館に行けば何か様子がわかるかなって心配で。上野の駅まで行って、美術館に向かって歩いてたら、向こうから堅山南風先生とそれから馬場さんの先生の郷倉千靱先生のお二人が歩いて帰って来られて、そこでバッタリ出会って、郷倉先生が馬場さんに向かって、君は入ったよって。そして、馬場不二さんが恐る恐ると、堅山先生に松尾君はどうでしたかとお聞きしたら、松尾、入ったよって南風先生がおっしゃって、それで知ってた訳です。僕はそれを聞いて、ほっとして、それでやっと先生のところへ来たと。それが、僕の初入選の思い出ですよ。

司会者
ほっとしたって言う・・・。

松尾
それは、もう、やっぱり、未だにその時の状況は、ありありと覚えていられるということは、自分にとって、一番、一生の中で一番の思い出に残る日でしょうね。初入選っていうのは、だから、春の喜びと共に、もうひとつ秋の喜びっていうのが加わると思いますけどね。

“初入選の時の気持ち”

宮北千織同人
 
  • 宮北千織同人
    公募展で発表して、会場で見るっていうことをして見て、どういう風に感じられたかっていうのをさっきの話と重複するかもしてないですけど、お聞きできたらなと思うんです。
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司会者
そうすると、皆さんの中で初出品、初入選って言う方が楯さん、おひとりで、あとの方は落選もご経験があるってことですね。さっきのお話は出品のきっかけということをお聞きしましたけれど、初入選の時の気持ちと、今まで個展やグループ展をされて、そういう発表はあったかと思いますけど、公募展で発表して、会場で見るということを、どういう風に感じられたかをさっきの話と重複するかもしれませんが、お聞きできたらなと思います。では、乾さんから、お願いします。


地方の公募展には、何回か経験させていただきましたけど、部屋で一人で描いている時とは全然違って、他の方の作品と並んだときに自分の絵の見え方っていうのが、もの凄く違うことに毎回驚いて、まあ、落ち込むことのほうのが多いですけど、今回の春の院展の展示も、じっくり見ていて、溜息ばっかりたてながら、描いていたのですけど、何回か院展に行かせていただいたのですが、毎回違う発見があって並んで自分の絵と他の人を、比べるのも変ですけど、それだけで凄く勉強になりました。

司会者
では、栁田さん。

栁田
さっき、お話したような。個展とかグループ展をさせていただき、どちらかと言うと、抽象的というか、つまりこう自分の思っていることを言いたくて、言いました、というところで終わっていたような気がして、今回、本当にドキドキして、まず初日。あ、あったって思って、一日が上の空だったような感じで、皆さんの絵を見ても、、凄い凄い凄いと思って一日が終わって。また、もう一日行った時に、色々な方が見てらっしゃる姿を見て、凄く皆さんが楽しみに、いろんなことを仰りながら、どんな世代な方が見てらっしゃるのかを見て、あー、これが公募展の、またこういうところでたくさんの一般の方に見てもらえる大きな違いなんだな、と、やっぱり個展だったりすると、まあ、そこへ来てくださる方だけとか、これはまた全然違うものなんだな、と凄く思ったし、凄く楽しみにしてらっしゃる方がたくさんいるんだな、って改めて、どうなんだろう、こんな時に見に来てくださる。また。自分の絵の前でも、何て読むのかしらって題名を言って、あーそうなのって言って、そういう風に色々な方がちょっと目を止めてくださるのを見て、こんなにたくさんの方に見てもらえる機会があって、これが公募展なんだな、と凄くそこが嬉しかったということが1つと。あとやっぱり、もっとこうすればよかったとか、こんな風に見えるんだとか、もうちょっとできたなとか。未熟だな、次は頑張ろうっていう風にやっぱり思ったのも、ありました。嬉しいけど、さっき仰った恥ずかしいみたいな、精進しないといけないな、っていうような気持ちにもなりました。

松尾
栁田さんが言ったみたいに、こうすればよかったなっていう気持ちね。大丈夫なんです、まだ、これから一生がありますから。まだまだ、挑戦する機会が何回も何回も来るわけだから。ひとつひとつやっていけばいいんです。

座談会
 
  • 座談会
    © 2011 日本美術院 All Rights Reserved
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乾さんの場合でも、実は、会場見ておわかりだと思うんだけど、この花の絵って非常に少ないですよね。いかに、花の絵が難しいかって、たくさん出てくるんですよ、やっぱり、花を描いた絵はね。みんな、審査で落とされている。それ、どうしてかって言うと、ただ花を描いているだけだから。ただ、花の色と形をね、なぞって描いてるだけだから、それはみんな落っこちゃうんです。花の絵の中に託して自分自身が出てきているものでないと院展では取り上げませんからね。たとえば、外国風景なんかは、我々にとって魅力的な素材であり、その魅力を感じることによって自分の環境みたいなのが、頭の中にしょっちゅう出てくるけれど、花の絵というのは、誰が見てもありふれてますよね、花っていうのわね。

司会者
個展やグループ展の時には、抽象的なことっていうのは実際にそういう表現を。

栁田
こういう形ではなかったように。

松尾
だから、去年あたり、まだそういう傾向が残ってましたからね。気分で描いて。

栁田
はい、気分で終わって。

司会者
それでは、次、新谷さんお願いします。

新谷
私も、他の方と同じように、個展ですとかグループ展、他の公募展にも出品させていただいて来たんですが、今回のこの院展ほど、会場で自分の作品が並べられてるということに対して、穴があったら入りたいと思ったことはなかったです。今回ほど、自分の中で重く感じたことはなかったです。特に、今回、宮廻先生の研究室では都合が合わなくて他の先輩方と一緒に勉強する機会がなかったんです、今回。その状態で出したので、本当に自分の絵が入ったのか、並べられているのかっていうのも不安でした。他の方は、入っていない時と、あと入選したときとで、どう見え方がまた違って見えるのかというのも、凄く不安が大きくて。今回の三越の展示は、初日の午前中、一番に行ったんです。真っ先に会場の地図を頂いて、自分の所を確認してから一番最後に行こうと思って、ひたすら違うところを見て、見て、見て、それから行ったんです。なので、本当にもっとこうした方がよかったなって、こんなものでは全然甘い。食いつきが全然足りないって、もっと勉強しなきゃ駄目だって痛感した気がします。

司会者
よろしいですか?では、楯さん。


グループ展はいくつか。公募展はたくさんではないですけど、挑戦したこともありましたけど、やっぱり院展は、他より上というか、受かるのが難しいかなと少し思って、でも、一番実力がわかるというか認められるのかなというのは挑戦するのが一番いいかなと思って、やってみたいと思って挑戦しましたけれども、入選したという連絡をいただいてからもまだ全然見られなかったですし、見て、やっと本当なんだと思いましたけど、ちょっと作品から離れて、見ていただく方とか、後ろから見たりとか。どんな風に、ほかの方が思われるのか。自分のグループ展とかはたくさんの人に出会えますから、違うんだなというのを凄く感じますし。どうなのかと思ってもらうのも勉強なんだなって凄く思いました。一番思ったのは、もっと勉強しないとと思ったことです。何が描きたいのかとか、もっと考えを絞ったほうがいいのか、描くときの気持ちを、もう少し行ってから描いた方のがいいのかというのを、自分の絵を客観的に見れる展示だったなと自分で感じました。自分で展示しないで、展示してもらって凄くよく思えるなという風に思いました。

司会者
自分の絵を客観的に見るのは難しいですよね?


外で見ると客観的にも見れるなと。作家のグループ展とかよりも冷静に見れると。

松尾
でもね、私なんか今でもそうなんですけど、自分の絵って恥ずかしいんですよ。見ていると恥ずかしくなりますよ。やっぱり、周りの絵の方のがよく見えるんです。

 


“要するに、自分自身を常にこう、疑問を持って見てないと絵描きって駄目だろうと思いますよ。”

宮北千織同人と松尾理事長
 
  • 宮北千織同人と松尾理事長
    私は松尾先生の「風化」という作品が、その作品と、あと言葉で、ちょうど41歳の時の先生の作品で、生活が安定したことによる、そこに安住して、それ故に精神の風化が進んでいるのではないかということを書かれている。
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司会者
私は松尾先生の「風化」という作品が、その作品と、あと言葉で、ちょうど41歳の時の先生の作品で、生活が安定したことによる、そこに安住して、それ故に精神の風化が進んでいるのではないかということを書かれている。私は、まあ、年代が43歳で、ちょうどその頃の先生のお気持ちと一緒で、胸にジンとくる言葉であり、今、まさにこの皆さんにも通じるようなことが感じられて。

松尾
要するに、自分自身を常にこう、疑問を持って見てないと絵描きって駄目だろうと思いますよ。ですから、よく私は、若い人たちと話している時に、絵の道というのは、所謂、自分の可能性を探っていく道だって話をするんですね。だって、可能性っていうのは、自分でも知らない可能性がいっぱいあると思いますよ。それを、自分からもう自分のことは全部知ってしまったと思ったら、もうお終いであるから。できるだけ、まだ自分の知らない自分というのは、どこかにいるのではないかなっと思いながら、それを探す、探って行くのが一生の仕事でしょうからね。
そうすると、たとえば今、おしゃっていただいたのですけど、私も41歳頃といのはそろそろ、家庭も安定しているし生活も少し、大観賞なんかを頂いていたお陰で、一応絵だけで何とか暮らしをね、明日のことを心配しないでも済むようになりつつあったかなって、そういう時代なんですよ。

平和ぼけになっているのではないかという、そういう気持ちで、精神の風化をおこしているのじゃないかと自分自身に問いかける必要があるなと思ったのです。それで、そういう風化という言葉が浮かんできて、それをまたひとつ絵にしたわけです。それは、いまだにやっぱりずっと続いているし、例えば、今年は富士山描きましたけども、もう今まで富士山、何十回となく描いてるし、写生に行ってるし。それでも今年、富士山もう一回描いてみようと思い、今年の3月に行きましてね。
それで、着いて夕方までに、僕はいつも写生をしたのは一番大きい、このぐらいの紙があるでしょ?僕はいつも和紙でこのくらい大きい画用紙が、あれを使いますすけどね。あれをまず、夕方暗くなるまでに、まず一枚写生をして、それから今度食事の後。夜は見えませんから、寝てから朝5時ちょっと過ぎぐらいに起きて、暗い中に段々富士山が浮かんでくるところを、ホテルの窓から、写生しながら朝食まで描いて、それから朝食が済んでからもう一回、今度はもう少し明るくなってる富士山を又同じ場所から描いて、3回目の写生をしているときに、あっそうだ、今度の一枚こういう風に描けば何とか今までと違う一枚が描けるような気がしてきて。
やはり、3回目の写生の時ですね。だけど、明け方の富士山が描きたいのですから、僕としては、寝坊で、放っておくと夜も遅い代わりに、昼間、どうかすると12時くらいまで寝ている位ですから。10時間ぐらい平気で寝てる方なのに、富士山へ行った時だけちゃんと5時に目が覚めるようになるんですよね。それで、暗い中にこう段々浮かんでくる富士山を写生しながら、陽が出てくるまで。それでもまだ決まらなくて、今度もう1回、3枚目描いたときに明け方の富士をどのように描けばいいかなっていうので、自分なりの結論の中でデッサンを、3回目の写生をしてからですよね。
だからそれは、富士山だったらもうソラで描けるでしょうって言う人がいるかもしれないけど、それはその位長く見てもいるし、絵も画いてるし、写生してるのですけれど、それでもまだ自分が知らない富士山が描ける、まだ描けなかった富士山が描けるのではないのかなと思ってやったのが、今年の絵でした。

 


司会者
この際ですので、折角なので皆さんから先生にご質問があればと思うのですけど。これも順番でいかがでしょうか?こういう機会は滅多に無いと思いますので。それでは、乾さんからどうぞ。

乾 露予

私は、植物が好きで、よく植物の絵を描きます。自分の表現したいものを入れようと、でも中々思っているものがそのまま絵には描けなくていつも苦しんでしまいます。どうしたら、できるだけ自分の思いを絵にいれることができるのでしょうか?

松尾
この作品を拝見していてもそうなんですけど、私は今のあなたの時代だったならば、このやりかたでいいと思いますよ。
つまり、自分のイメージがあって、そのイメージを表現するための花ですね。それでいいと思いますよ。ですから、そういうことをどんどんどんどんと重ね重ねてやっていくうちに、今度、花と向かいあって、写生なさるでしょ?私も勿論花は、必ず写生をしますけれど、写生すると、そこでね、花が生きているんだなって感じる訳ですよね、写生しながらね。そうすると、花の形ではなくて、その生きていることが美しいのだなっていう風に考えられるのではないのかなと、思いますね。ですから、私の場合にはあくまでも写生の通り描いてます。よく牡丹、牡丹といって、牡丹を描かされもするし、また私も好きだからよく毎年写生に行って、その度に、牡丹の花ばかり写生して帰って来てますけど。やはり、何回描いても、何回見ていても、面と向かっている花とは、それは初対面なんです常にね。その花との初対面なんです。そうすると、初対面同士で、所謂、こんにちはから始まるわけです。いやーこんにちはで、ご機嫌いかがっていうような会話がお互いに生まれていく。そういう会話をしているうちに、何か、相手が生きているのだなという気持ちで生命感みたいなものが、うまく出せるとすれば。
私はだから決して、作っていません。写生をしたものを、そのままただ日本画の絵の具で描いているだけなんです。でも、見た人から花の生命を感じるとかね。そういう風に言って頂けるので大変ありがたい言葉なのですけれども、自分としては、そう言ったものを出そうと思ってやってますけど、ただ花と話をした時の会話をもう一回自分の筆で繰り返しながら、なぞって行っているだけという気持ちなんです。上手くするとそれが相手の生命まで写しだすということになるのかなって。 自分でそれは判断できません。自分では、あくまでも写生のとおり描いているだけだから、十年一日のごとくかなっと思うのですけれど、やはり毎年、毎年、写生を重ねていくと十年単位ぐらいで少し変わったなって自分でも解ることはありますよね。去年の絵と一昨年の絵と比べて見て、今年のとは変わりないのだけれど、十年前の絵と比べると、あ、同じ花描いても花の見方が少し変わってきているかな、こんな風に変わったかなって、ちょっとしたズレみたいなのがね、自分で感じることがあって、やはりこれはその度に写生を重ねて行くでしょうね。
だから、生きているってことは、これは感動ですからね。自分も生きているけれど、全てのものが生きている訳ですよね。ですから、その感動を描くという気持ちでいいと思いますけどね。ただ、乾さんの場合は、今年の絵で初入選したように、ある意味、まず自分のイメージがあってそのイメージの中に花を生かして行くっていうやり方は、当然それでいいと思います。それ以上難しく考えないで、その通り暫くやって行ったらいいと思いますよ。そのうちに、段々だんだん絵って自然に変わりますからね。

ありがとうございました。


司会者
では、次、栁田さん如何でしょうか。

栁田晃代

描き始めてから描いているのが楽しくなってしまって、最初のイメージの絵の具の綺麗さだったりとか、そういうことに段々気持ちが移って行ってしまって描き始めの、こういう風に仕上げたいというものと、再度、仕上がった時とが何となく、あ、この色綺麗だなっていうことに段々引きずられていって、最初の思いとちょっと違うことで終わってしまうようなことが往々にしてあるんです。これを描きたいと言う思いを最後まで続けて、絵の具の色の綺麗さとかに引きずられずに最後まで一貫して描けたらいいなと思うんです。どうしたらよろしいのでしょうか?

松尾
私は、自分の場合ですと、一番最初にこの絵はこう描こうって意思はあまりないんですね。まず、色から塗りだしていくとね、やはりかなり迷います。どうしたらいいのだろうかって、いうことでかなり迷っていくうちに段々だんだん、そうだ、こうすれば自分の気持ちが出てくるのかなっていう風に気がついて来るところがあって。そこから少しづつ絵が変わって行くのかなって。最初に思ったことが変わるのではなくて、最初は私の場合はあまり考えていないんです。大体は考えますよ。今度の富士山を描くに当たってはこういうイメージで描きたいな、だけどそれをどうやって表現できるかなってことは、筆を下ろすまでわかりません。ですから、やりながら考える。私の場合はやりながら考える。それで、途中で、だから随分迷ったりして今回、この富士山はあまり迷いませんでしたけど、秋の展覧会などは必ず1回途中で消すんですよね。もうつまらなくなって。どうして、こんなつまらない絵を描き出したのだろうって、がっかりした気持ちがあって。その時は、1回全部消して見ました。、いまでも相変わらず消してます。消してしまって、それから今度それを洗い出していくわけ。洗い出して来ると、そうだ、この道で行けばいいんだっていうことが段々だんだん自分に見えてくる。その為に消すんでしょうけどね。だから、最初から結論が見えている訳ではないのです。常に、手探りですからね。探って行くうちに何かにぶつかるかも知れない。ぶつからないことだってあるのですよ。

栁田
先生、どうもありがとうございました。


司会者
では、次は新谷さんお願いします。

新谷有紀

私は今、大学の方で先ほど言いましたが、古典の模写、古典研究を通して日本画を勉強してより深めている訳なのですけど。今と昔とで、やはり大分違う作品の作り方だと感じます。素材は同じような近いものが残ってますが。私は今、古典の研究としてこれからの自分の作品を、どういう風に新しいものを作りつつも、精神性というのでしょうか、受け継いでいくものを模索している最中です。自分にとっての原点のようなものを探しております。先生にとっての創作の原点、古典はどうだったのでしょうか?

松尾
私の場合には、堅山南風先生という所へ、先生を尊敬していて、その先生の弟子になりたいっていうところから入って来ましたからね。新谷さんのように基本的に積み上げて行くような写生ではなくて、自分でみんな、最初から手探りなんですよね。あの頃は、塾というのはね、先生はああしろこうしろって絶対に、南風先生の場合はそれは仰らなかったです。ただ、好きなようにやりたまえ。で、それから写生をよくしなさい、とそれは言われましたけどね。自分で、何かお手本を探してきて模写することはしました。ですから、徽宗皇帝の桃鳩の絵だとか、李安忠の鶉図だとか、それからあと絵巻物ですよね。自分なりに模写をして見たり、雪舟の山水長巻なんかを模写してみたりと、そういうことをしたんです。ただ模写をしながら自分で考え、感じたのは、模写をするとその原画を描いた人と同じ気持ちにフッと戻れる瞬間があった。それがとても良かったんですよね。あ、そうだ。この人はきっとこういう気持ちでこの絵を描いただろうなって、それこそ何百年もの間、あるいは千年ぐらい前の人の気持ちが自分と共通に、何かこう、感じることがあって。僕は模写をするときに一番良かったのは、同じ気持ちになれたという。多分、描いた人はきっとこういう気持ちで描いただろうなってことが解ったということです。ですから、その模写で覚えた技術は大事なことではないと思うのですよね。だから、もし技術を覚える為に模写をするとなると、模写ということが邪魔になることがあるかも知れませんよ。模写をすることによって、原点に自分も共通の場を持てるということが、それが模写することの大事なことであって、技術を学ぶために模写をするのではないんだ。学校の際には、模写そのものがひとつの仕事として、完成度の高いことを求められますから、そういう技術も一所懸命にやるべきですけど、それと自分の絵と一緒にしないほうがいいかな。ですから僕も知っている人で、大学院で修復を勉強したけれど、逆に言うとその人のいい物がちょっと見えなくなってしまった時期があったということを感じることがありました。どうしても、覚えた技術を使いたくなるんです、自分の絵の中に。そうするとね、枝葉にばっかりこだわってしまって、一番大事な幹の部分を失ってしまうんです。確かに、技術というのは枝葉ではあるのだけれども自分の根幹ではないですよね。技術なんか無くても良い絵は描けるんです。ゴッホを見ればわかります。ゴッホは、絵としては素人だと思いますよ。でも素晴らしいものを持っているし、あれは人間という根幹があるからでしょうからね。絵で大事なことは、そういうことだなって思ってますから。技術は勿論知っている方がいいんです。私は所謂アーティストではなくて最初は、アルチザン(職人)であるべきだという主義なんですよ。つまり技術屋さん。僕は未だに、私は絵描きやさんですってよく人に言います。芸術家ではなく、ただの絵描きやさんなんです。だから、絵描きやさんっていうのは技術を持っていることなんです。技術がないと、何か自分の目の前に壁が聳え立っているときにそれを乗り越える方法が中々見つからない。これは、人間性だけではどうにもならない。技術を持っていると、その壁が意外に乗り越えられます。乗り越えたところからもう一回また大きな壁にぶつかっていくということは当然ですけれどもね。だから、根幹は人間なのですけれども技術も決して邪魔にはならない。ただ、技術に偏重してしまうと、それが自分を出すことの邪魔になってしまうということは、やはり気をつけて、特に技術の勉強する方にとって大事な事は、その辺を混同しない方がいいかなと。技術ができれば絵ができるので無くて、技術はあくまでも技術であって一番大事なことは人間の心でしょうからね。それがなければ駄目だなってことに気をつけておく方がいいと思います。

新谷
ありがとうございました。


司会者
では、楯さん、お願いいたします。

楯 麻子

私は作品が完成に近づいた時に、終わりが見えない時がたまにあります。それで、どこまで描けば完成なのかということが自分でわからなくなります。止める決心がわからなくて、ここで止めるとよかったなと思う時はあるのですけど、わからないときは、もっと行って戻るようにしています。その辺のアドバイスをいただければと思います。

松尾
やはり完成の日というのは、締め切りの日なんです。それは誰でもそうだと思いますよ。搬入の日に間に合わなかったら審査してもらえないし、我々だって図録に間に合わなかったらいけないんで、初日にきちっとと出すように、仕方なしに締め切りが来るから出しているのであって、完成しているから出しているわけでは無いです。完成なんてないですよね、どこまでいっても。でも、それと逆みたいなことを言うようですけど、絵で大事な事は、筆の置き所が難しいということを僕はよく先輩に言われました。絵で難しいのは、筆の置き所だよ。それはね、勘が悪いとそれが見えないのだと。勘が良い人間はそれが見えるのだ。それをよく言われました。そうして見るとね、僕の家内の場合は、家にいて滅多にアトリエに入って来ませんけどね、大きい絵を描いているときには時々はそれを途中で見るような機会があって、用事があってアトリエの部屋にくるようなことがあれば、ちらっと見ますけどね。これでもういいの、なんてよく言うんですね。つまり、まだできてないじゃないって言い方するんです。それで僕はいつもムッとしてしまう。要するに、僕の場合には八分目で止めてしまうと言う意識なんです。所謂、十二分やったかなってことまで行かないで、どこで筆を置くかというと、僕はいつもちょっと手前で置きます 。その方が、つまり隙間を作っておく、100パーセントやらないで80パーセントか80何パーセントぐらいで筆を置くと。そうすると、残り空白がありますよね。そこに見る人が入って来れるという考え方なんです。自分で100パーセントやってしまうと他の人が入り込む余地がない。それが実は、絵で言う筆の置き所何ですよね。僕はそう思ってます。100パーセントやらないで90パーセントぐらいで止めておく方が、所謂、膨らみができるんです。でもそれを貴方たちのように若い人にね、そう思ったら、今はそうなると思っちゃ駄目ですよ。これは、70歳とか80歳とかになったら思って宜しいことです。年をとって身体が弱ってくるとね、面倒くさくなりますから、当然、いやでも100パーセントやらなくなるんです。でも、やらないことによってかえって絵には膨らみが出るのじゃないのかな。

司会者
松尾先生ありがとうございました。
まだまだ、五浦の事などもお伺いしたいと思いますが予定時間が参りましたので、最後に私の方から松尾先生にお聞きしたいことがございます。
先生の初入選の時のお気持ちから現在におかれまして、一番変わられたましたことと、変わらないことをお話いただければと思います。

松尾
そうですね、変わったことは年をとったこと。それから、変わらないことは、私は未だに若いということ。二十代だということ。
色々な体重計が出ていますけれど私の体重計は年が出るんです。昨日も体重計にのってみて、私の年齢は42歳でしたよ。でも戸籍上は85歳ですからね。(笑い)

司会者
松尾先生、長い時間ありがとうございました。


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